『プラットホーム』ジャ・ジャンクー@LAST BAUS結城秀勇
[ cinema ]
『プラットホーム』はシネスコの映画だと、長らく勝手に思い込んでいたのだが、実際にはヴィスタサイズだった。あの、石造りの狭い室内を光が零れる開口部方向にカメラを向けて撮る、初期ジャ・ジャンクースタイルを決定的に特徴づける美しいショット群と初めて出会ったのはこの作品だったが、その小さな家から一歩足を踏み出せば、巨大な山々や霞む地平線などの広大な中国の大地がどこまでも広がっている、そんな印象を持っていた。だが、実際には広大な風景もまた狭い室内を捉えるのと同じフレームサイズで撮られているに過ぎない。当たり前だが。
そんなことを改めて思うのも、広大だと思っていた風景の中に入っていくシーンでも、奇妙な圧迫感を感じずにはいられないからなのだ。公開時の文章で中根理英が「「何か」がなっている」と呼ぶその音、場面によってはトラクターやトラックのエンジン音だったりミシンの音だったり列車の走行音だったりするとわかる、だが多くの場面でいったいなんの音なのかもわからないままずっと鳴り続けるその音が、この爆音上映では全面展開するからなのだ。観客の内臓にズシリと響く低音は、もはやどこから響くのかも、どんな距離から届くのかもわからぬまま私たちを揺らす。それを「激動する時代のたてる音」などと呼んでみたい欲望に駆られなくもないが、たぶんそれは違う。特定の時代の特定の地域のことだと区切りをつけられるようなものではなく、私たちだっていままさにただ中にある、そんな「何か」の音なのだ。
記憶にあったより100倍くらい唐突にやってくるラストショット。火のついたタバコを持ったまま眠りこけるワン・ホンウェイと、子供を抱きかかえて、ヤカンで湯を沸かしているチャオ・タオ。このシーンには見る人それぞれの多様な解釈が存在するだろうが、なんだか今回はワン・ホンウェイが見ている、寝ている自分の映像を含んだ夢、という複雑なものではないのかと見えてしまった。そんな妄想が妥当かどうかはどうでもいいが、この映画を見ている観客たちもまたそれぞれのまどろみを打ち破る、沸騰するヤカンの音に曝されているのだろう。
劇場を出て、いまここでも「何か」の音は聞こえるかと耳を澄ましてみるが聞こえない。我々のまどろみの中では、幽かに聞こえるか聞こえないか、そんな「何か」の音をアンプリファイアしそれに押し潰される体験のための装置こそ爆音上映である。須藤健太郎の言葉を借りれば、そうした体験がなければ「感覚が鈍っていく」のだと思った。