『ザ・シャウト/さまよえる幻響』イェジー・スコリモフスキ@LAST BAUS隈元博樹
[ cinema ]
穴のあいた缶詰をひっかく、グラスの淵を指でこする、タバコに火をつける……。あらゆる音源をダイナミックマイクで録音し、その振動音を電気信号に変えてミキシングするアンソニー(ジョン・ハート)に対し、クロスリー(アラン・ベイツ)がポツリと挑発する。「君の音は空疎だな」。どこか自信さえうかがえるその一言に、笑みを浮かべるのも無理はない。彼にはこの世の生物を一瞬にして殺めるための「叫び」があるのだから。
「君の音は空疎だな」と挑発したことには、おそらくふたつの裏付けがあると思った。ひとつはスクリーンに映る不特定多数の被写体ぜんたいを叫び殺せるという自信だ。たしかに教会のオルガン奏者でもあるアンソニーの職務上の音楽は、ミサや葬儀に参列した不特定多数の民衆に響く余地があるのかもしれない。だけど自宅にこもってミキシングを施したその音には、彼にしか反響していないように見えてしまう。しかも音録りのために外へ出かけることもなく、アンソニーは自らの手で鳴らした音にしか興味はない。妻のレイチェル(スザンナ・ヨーク)も、夫のそうした仕事に無関心を装っている。だから彼の音は、彼にしか響いていない空疎なものなのだ。
もうひとつの裏付けは、レイチェルをアンソニーからあっけなく寝取ったように、それが不特定多数にとどまらず、特定の個人から個人を奪い、さらにはその個人を魅了させてしまうだけの力を保持しているということだ。実際にレイチェルはアンソニーの「叫び」を聞くことはないけれど、クロスリーは「好みの異性を振り向かせるには、その異性の所有物に魔法をかけることだ」とレイチェルに諭す。そういえば冒頭に彼女の夢のなかで靴の留め金具をあらかじめ盗んでおいたのは、おそらく彼が放った魔法のひとつなのだろう。それでなぜレイチェルを魅了できたのか、あるいはどうやって留め金具を盗んだのかはわからない。だけど空疎発言の裏には、見ず知らずの対象とは別に、目の前のアンソニーが愛する者さえも奪ってやることを知らしめるための、ある種の警鐘が暗示されているのだ。
人を叫び殺せる事実を告白した直後に、それをすぐさまアンソニーの前で実践するのではなく、翌朝砂丘まで呼んで見せてやる、という勿体ぶったくだりからも、クロスリーの不気味な自信がうかがえる。だから夜のバウスに轟くクロスリーの2度の「叫び」に対し、この世のあらゆる音を嘲笑し、個人へと向けられた自我のパワーを感じた。そしてクロスリーの「叫び」を対にしてこのフィルムぜんたいを支えているのは、あの静寂な状況のなかでつぶやかれた「君の音は空疎だな」の一言にちがいないと思った。