『X‑MEN: フューチャー&パスト』ブライアン・シンガー結城秀勇
[ cinema , sports ]
「X‑MEN」シリーズが結局あまり好きになれないのは、プロフェッサーXが「導く」ところのミュータントと人間の共生が、つまるところミュータントだけの自律した世界(エグゼビア・スクール)をつくることに他ならないからだ。外部から隔絶した環境で、カッコつきの「マイノリティ」として認めてもらうこと。そこが本当にブライアン・シンガーの鼻持ちならないところで、かつて『スーパーマン・リターンズ』について書いたように、シンガーはスーパーである(この場合ミュータントである)わけではないマイナーな人間の苦悩など微塵も気にしない。せっかく『X‑MEN: ファースト・ジェネレーション』で「マイノリティ」としての確固たるアイデンティティをまだ持ちえていない若者ミュータントたちの、ミュータントではない人々との共闘の可能性を描いたはずなのに、本作ではいきなり、善い人間など存在しない、善いミュータントか悪い人間かしか存在しない世界へと観客を導く。結局こんな世の中になるくらいなら、プロフェッサーよりも、ミュータント以外は全員ぶっ殺せと主張するマグニートの方が全然理解ができる。ただしこちらの方法論も、あらゆる革命論と同様、すべてのミュータントでない存在が駆逐されるまで、つまり潜在的にはすべてのミュータントである存在すらも地上からひとりもいなくなるまで、革命は到来しないわけだが……。
そんなことを考えたくなるのも、いま日本で起きていることに抵抗する方法を、平和だの安全だのを食い物にして金を儲けるようなクソに抵抗する方法を、私は映画から得たいと思うからだ。もし特殊な力を持った者たちであれば、いま私たちが置かれている状況に対してなにができるのか。その答えは、私たちが間違った地点に立ち返り、正しい選択を行い直すなどということでは決してないだろう。過去を改竄することで未来の表層を別の層で上塗りすることなんかではあるはずがない。
そう考えたときに、『X‑MEN: フューチャー&パスト』の中で唯一私に抵抗のアイディアをくれるキャラクターは、ジェニファー・ローレンス演じるところのレイヴン=ミスティークなのだ。彼女が73年の時点で犯した殺人こそが悪しき未来の「原因」なわけだが、実際には彼女が殺人を犯そうが、犯すまいが、事態は依然として変わらない。そして映画のラストで彼女が下す選択まで、つねに彼女は未来の「原因」として生き続ける。で、映画の物語上は、命令や指図ばかり受けてきた彼女が、初めて自ら選択を行うことが未来に影響を与えるわけだが、そんなことはどうでもいい。問題はそこではなくて、彼女がいかに徹底して「原因」であり続けるかということと彼女の能力が密接に関係しているということだ。彼女は、ミュータントを排除する兵器を作り出した「原因」たるトラスク博士になり、彼女の仲間たちの多くを死に追いやった(擬似的な)「原因」としてのニクソンになる。それらは悪しき物事の「原因」を過去に遡ることでしか見出せないやくたたずの男どもにはできない離れ技なのであり、だからこそ、彼女が金髪白い肌のジェニファー・ローレンス本人に化けたときよりも、赤い髪青い鱗の姿のままで最後に見せる微笑みの方が美しい。そしてシンガーは、決してこの映画には登場しないミュータントではない普通のマイノリティたちが、レイヴンとして生きる道を提示しなければいけなかったはずなのに、それを怠っている。
自分たちをカッコつきの「マイノリティ」としてマジョリティに認めさせることでもなく、かといってマイノリティをマジョリティよりも大きな勢力に変えるのでもなく、あらゆる人間が例外なくマイノリティとなる必要がある。悪しき未来の「原因」として生きる、そのために私たちひとりひとりが、素肌の上に塗った青い鱗を身にまとったままで微笑まなければならない。未来でも、過去でも、その両方で。