『収容病棟』ワン・ビン渡辺進也
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『収容病棟』に出てくる人々は昼だろうが夜だろうが通路をうろうろして、何の抑揚もない生活というか四六時中ほとんど変わらない生活をしているように思える。彼らがいるのは刑務所のように閉じ込められて外に出ることはできない場所で、しかも彼らは自分たちがその中にいる理由もよくわかっていない。彼らは病気だから収容されているということになっているが、収容されている理由も家族に迷惑をかけているとか、政治的な行動をしているというものもあって、だからこそ見ているこちらも彼らが本当に病気かどうかよくわからない。だから、彼らは自分がどういう状態になったら退院することができるのかがわからない。彼らにわからないのだから見ている私たちにはもちろんそれがわかるはずがない。そういう意味では、空間的だけでなく時間的にもこの病棟にいる人たちは閉じ込められている状態にいるように思える。
この映画の4時間という時間はたまたまであるような感じもするし、その長さは必然的であるような気もする。上映時間が進むに従って、新たな展開が次々と起こるわけではない。だから、前篇から見ても後篇から見てもあまり変わらないかもしれない。例えば彼らがどういうところにいてどういう生活をしているかということだけだったらものの15分もあれば十分に理解できる。4時間にも渡る時間で私たちが得るものはこの病棟に関する様々なエピソードというよりは、ひとりひとりのエピソードの厚みのようなものだ。この病棟にいる人の人生への理解が時間が進むに連れて少しずつ蓄積されていくということだ。カメラがひとりの人物を追って廊下を歩いていると、先ほど出てきた人物が普通に向かい側から歩いてきたり、ひなたぼっこをしている姿が画面のはしっこに映っている。それは本当にただ歩いている、ただ座っているということなんだけれども、すでに彼らのことを知っている私たちは彼らとの再会にちょっとうれしくなる。彼らのほとんど無表情の中にちょっとした感情を読みとることになるかもしれない。彼らがカメラに見きれるたびにその人の輪郭がはっきりしてくる。
彼らが生活する病棟は真ん中にロの字型に穴があって、その周囲を回廊があって、その外側に同じような部屋が並んでいる。ぱっと見の構造としてはフーコーが『監獄の誕生』で取り上げているパノプティコン型と言っていいだろうか。パノプティコン型というのは、監視者の視線が内面化して囚人自身の中に監視者が生まれ、それによって規律化された身体が形成されていくというものだろうが、この収容病棟は全然監視も管理もされている感じがない。収容された病人たちは他人に興味を示していないし、みんな夜中にひたすらうろうろしているだけだ。映画の途中、廊下で水浴びする男が出てくる。その男が廊下で水浴びしてるとき脇に立ってるおじさんは「そこで浴びると廊下がびしょびしょになるから、こちらに立って浴びろ」と男を一歩横にどかせる。そのおじさんは男の水浴びをちゃんと見張っているんだが、男が移動した場所で水を浴びても結局廊下はびしょびしょになる。思わず爆笑。秩序がなど生まれていない。カオスにしか見ない。
映画の終盤に、退院ということだろうか。この病棟から外に出ていった人がひとりだけいる。彼が帰った場所は石造りの狭い家で壁がぼろぼろでささやかに農業を営む両親がいる。家に帰ってきた男がやることは家の周囲をただ歩き回ることだけだ。長い時間彼は歩き続ける。あまりに長く歩き続けるのでカメラはいつしか彼を追うことをやめてしまう。僕らは暗がりの中に消えていく彼を見送る。結局、外に出られたのに収容病棟の中にいるのとたいして変わらない。病棟の中もその外側も何も変わらないということだ。
最初は特異なことが起きている場所についてのドキュメンタリーだと思っていた。中国にあるこの病棟はルールも何もないおかしな場所だと。しかし、いつしか気がつくことになるだろう。彼らと僕らの間を隔てるものなどないことを。Till madness do us part。『収容病棟』の英語題だ。でも、彼らと私たちの間を狂気が隔てることなどない。彼らが狂気を宿しているということならば私たちもまた狂気を宿しているし、彼らが宿してないならば私たちも宿していない。それこそが事実だろう。そう思ったら一気にこの映画が楽しくなった。
楽しいのは、彼らは恋愛もすれば喧嘩もするからだし、お腹の減ってるやつは残飯をあさるし、寂しがりやなやつは別の男のいる狭いベッドにもぐり込む。4時間もあるから彼らの人生の断片が豊富なのだ。走りたいやつは回廊を走り出すし、それを追いかけたいやつはカメラを持って追いかける。ほんの1分もすれば男は1周回って再び姿を現すだろう。しかし、ワン・ビンは突然走り出した男を走って追いかけ、彼をフレームの中に入れ続ける。男が走り出した瞬間、ワン・ビンの走り出すことの早いこと。何の躊躇なく走り出したそのことでワン・ビンがもっと好きになった。