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August 14, 2014

『ジョナスは2000年に25才になる』アラン・タネール
中村修七

[ cinema ]

 「ジョナスは2000年に25才になる」。そのように歌われて、妊娠を明らかにした女性は、これから生まれてくる男の子の名前の候補を幾つも挙げられた末に、テーブルを囲んでワインを飲み交わす知己の人々から祝福を受けることとなる。グラスに入っているワインの量が少なくなれば部屋の壁に寄りかかって佇む子供たちが大人たちに注いで回る、奇妙といえば奇妙に違いない状況で、酔っ払った大人たちが合唱するシーンが素晴らしい。このようなシーンを見た者ならば誰でも、ジョナスの誕生が絶対的な歓びを伴う出来事でなければならないといった予感を抱くだろう。
 実際、母親から授乳されている赤ん坊の時にしても、壁に落書きを描いている5才の時にしても、ジョナスは柔らかい光に包まれることとなる。ジョナスを包み込む光は、彼の両親の世代の人々には決して恵まれることがなかった光だ。西暦2000年に25才の誕生日を迎えることになるジョナスを捉えているのが時を隔てた僅かにふたつのショットのみだとはいえ、そのどちらでも、空高くから降り注ぐというよりも、後方から射し込んできたかのような光が彼の周囲には充満している。
 この映画に登場する大人たちは、1968年5月革命を何らかのかたちで経験してきた人々だ。そして、彼らの姿が捉えられている季節は、いつも冬だ。おまけに、彼らの上に広がるのは、雲が太陽を覆い尽くす曇り空ばかりだ。印刷工場での仕事を失った男は、寒空のもと、農場での働き口を得るためにバイクにまたがって田舎道を走り、その1年後には、凍えそうになりながら、農場での仕事を失ったため新たに見つけた工場で仕事をするためにバイクにまたがって街の中を走る。機械工場で働くその妻も、農場で暮らす夫婦も、新聞社で校正をする男も、銀行で秘書をする女も、高校の歴史教師も、スーパーのレジ係も、ジュネーヴ近郊に暮らす彼らは、曇った冬空の乏しい光のもとでばかりキャメラの前に姿を現している。
 脚本は、スイス生まれである監督のアラン・タネールとともに、イギリス生まれの作家ジョン・バージャーが担当している。ジョン・バージャーと1968年ということになると、どうしても、『見るということ』に収録されたエッセイ「二つのコルマールの間」を思い出してしまう。そのエッセイは、1963年と1973年にバージャーがフランス東部のコルマールを訪れてマティアス・グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画を見たことについて書かれたものだ。バージャーが訪れたのは、2度とも冬だったという。2度に渡る彼のコルマール訪問のちょうど真ん中に当たるのが1968年だ。彼は、1968年の経験について次のように書いていた。「一九六八年、何年間も地中深く培われてきた希望が世界中の幾つかの場所で生まれ、名前が授けられた。そして同じ年、この希望は無残にも打ち砕かれた」。
 1963年と1973年にイーゼンハイム祭壇画を見た際の印象の変化は、バージャーにとって、次のようなものだった。「革命の予感の時期、私は残存していた芸術作品を過去の絶望の証拠として捉えた。耐え忍ばなければならないとき、私は同じ作品を奇跡的な供物、絶望をすり抜ける小道として見る」。このような変化をバージャーにもたらしたのは、キリスト磔刑図を中心とするいわゆる第1面からキリスト降誕図を中心とするいわゆる第2面へと、視線の向かう焦点を移動させることだった。焦点をこのように移動させることにより、彼は、磔刑図の暗闇だけではなく降誕図の光もイーゼンハイム祭壇画に描かれていることに気が付くこととなる。また、10年の時間を隔ててなされた焦点の移動は、歴史的に位置づける対象を祭壇画から自分自身へと移すことでもあった。1973年の彼は、イーゼンハイム祭壇画が描かれた歴史的背景を探ることはせず、祭壇画を見た印象を変化させた自分自身の歴史的背景を探る。この時の彼は、イーゼンハイム祭壇画の光に一種の希望を見出しながら、自分自身を歴史的に位置づけている。
 ところで、ロバート・クレイマーの『マイルストーンズ』も、1968年を生きた人々のその後を捉えた映画だった。とはいえ、『マイルストーンズ』と『ジョナスは2000年に25才になる』では、対象との距離の取り方が異なる。『マイルストーンズ』において、視線はあくまでも1968年を生きた人々に向けられていた。ところが、『ジョナスは2000年に25才になる』において、最終的には、視線が向けられる対象が1968年を生きた人々の世代から子供の世代へと移動している。
 『ジョナスは2000年に25才になる』では、子供たちによって農場脇の壁に描かれた大人たちの肖像画が現れるシーンが3つある。肖像画の中心に描かれているのは、イーゼンハイム祭壇画のキリスト磔刑図のように、両手を広げた背の高い男の姿だ。この肖像画が捉えられるのは、ユートピアを夢見ることを諦めきれずに農場で働くことになった男が幻想するシーン、次には、その男が実際に農場内の温室で教える子供たちに肖像画を描かせるシーン、そして、5才になったジョナスがひとりで壁の前に立って肖像画の上に落書きを描くシーンだ。
 肖像画が3回目に現れたシーンでは、先に記したように、ジョナスが柔らかい光に包み込まれている。曇天のもとで壁に描かれた肖像画の上に、皆からの祝福を受けて生まれた5歳の少年が柔らかい光の中で新しい画を描く姿が美しい。磔刑図の暗闇から降誕図の光へとバージャーはイーゼンハイム祭壇画へ向けられた視線の焦点を移動させたのだったが、『ジョナスは2000年に25才になる』では、キャメラの被写体を取り巻く環境が曇天の乏しい光から柔らかく明るい光へと変化する。
 ジョナスの父が郊外の農場から街中の工場へと職場を変えることになったのちも、農場の脇に壁画は残る。そして、ジョナスは、かつて父母たちの肖像画が描かれた壁の上に、新しい画を描くことが出来る。親たちの肖像画の上に重ね書きをする少年の姿を柔らかい光の中で捉えながら、『ジョナスは2000年に25才になる』は、1968年を生きた人々の肖像を歴史的に位置づけている。

ダニエル・シュミット レトロスペクティヴ(※会期は終了しています)