『300<スリーハンドレッド>~帝国の進撃~』ノーム・ムーロ常川拓也
[ cinema ]
前作『300<スリーハンドレッド>』(06、以下『300』)で最も特徴的だった点はその「男根」性である。スパルタ兵は皆白人であり、戦場に女は存在しない。レオニダス王(ジェラルド・バトラー)は軍隊のように命を賭けてスパルタ兵を統率する。『300』は反時代的なマチズモの映画であった(軍隊同士の盾を持ってのぶつかり合い、押し合いはアメリカのジョックスの象徴であるフットボールのようですらある)のに対し、監督のノーム・ムーロや製作陣は前作のグラフィック・ノベル的表現を引き継ぎつつも、時代に合わせた物語を構築し差別化を図った。
今作『300<スリーハンドレッド>~帝国の進撃~』(以下『帝国の進撃』)は前作『300』と対になるように意図的に製作された作品であると言える。マチズモ的映画だった前作に対して、今作では男性優位主義社会の中での自立した、たくましい「女性」が強調される。アルテミシア(エヴァ・グリーン)というキャラクター、前作との王妃ゴルゴ(レナ・ヘディー)の描かれ方の違い、ナレーションが前作のディリオス(デヴィッド・ウェナム)から今回は女である王妃ゴルゴに変更されていることからそれは明らかである。しかし、今作はポリティカリー・コレクトネスが意識されている分、前作にあった雄々しい魅力が薄れてしまっているとも言えるのだが、それでもなお『帝国の進撃』に価値を与えるのは、正気の沙汰ではないアルテミシアというキャラクターの存在であり、エヴァ・グリーンという女優のカリスマ性である。
アルテミシアはギリシア人として生まれたが、8歳の頃に目の前で両親がギリシアの重装歩兵に殺害されてしまい、それ以後、ギリシア兵たちの性の奴隷として扱われる日々を送った。道端に捨てられたところをペルシアの密使(前作でレオニダス王に底なしの大穴に蹴落とされた使者)に拾われたことで、そこから彼女は「私はギリシア人だが、心はペルシア人だ」と打倒ギリシアに燃え冷酷無比なペルシアの女戦士となる。つまり、今作は長い時を経て、凌辱した鬼畜ども=ギリシアへの全精力を賭けたアルテミシアの怒りの復讐の物語なのだ。
「レイプ・リベンジ・ムービー」という映画のジャンルがある。それは、女性が鬼畜な男たちにレイプされ、その絶望から怒りが爆発した女性(や遺族)が男たちにリベンジする映画のことである。エヴァ・グリーン扮する女傑アルテミシアの視点に立った時に、今作は「レイプ・リベンジ・ムービー」の要素がある作品と言える。世界から取り残され、怨念に取り憑かれ「復讐の鬼」と化したアルテミシアは殺戮でしか世界とコミットすることができない(テミストクレス(サリヴァン・ステイプルトン)とのセックスまでもが暴力のように描かれるのだ!)。例えば、『鮮血の美学』(72)のチェーンソー、『発情アニマル(悪魔のえじき)』(78)の斧、『ビー・デビル』(10)の鎌など、「レイプ・リベンジ・ムービー」で復讐の鬼と化した者たちは男性あるいはセックスに対する潜在的な恐怖のメタファーとして刃物を持つ。「剣の名手」と言われるアルテミシアが世界に抗う武器である剣もまた同じように男性器のメタファーなのである。70~80年代のエクスプロイテーション・フィルムで女たちがエクストリームな表現で象徴的に男性器を刃物で刈る代わりに、より広い一般大衆向けに作られた今作でアルテミシアは男の頭を刈る。言うまでもなく、刈られる鬼畜どもは、他者への無理解な社会あるいは女性を抑圧する官僚主義の象徴として存在する。そして、テミストクレスに剣で貫かれる彼女の最期は「挿入」のメタファーのようにすら見える。これはマチズモ世界に抗った女の皮肉な結末に私は見えてしまうのだ(同じレイプ・リベンジ・ムービーとしての側面を持つアベル・フェラーラの『天使の復讐』(81)を想起させる)。最期のアルテミシアがテミストクレスに跪く姿はフェラチオのそれである。すなわち、彼女はマチズモに屈したのだ。「レイプ・リベンジ・ムービー」がハッピーエンドを迎えることはない。
アルテミシアは過去に負った傷みを取り除くために殺戮を行い、敵国へ魂を売るくらいならば自ら死を選ぶ。思えば、どの作品でもエヴァ・グリーンが登場する世界は閉じていく/閉じられた状況にあり、その中で退廃的に生きる彼女にはどこか「死」のイメージがつきまとっていた。彼女にとっての「死」は愛や希望、自由を「永遠」のものとするためにある。閉じた世界で彼女が生きるのは、そこだけが夢の世界であり、外に出ると夢が終わるからだ。エヴァ・グリーンはいつまでも夢を見る。たとえそれが敗れ叶わないものだとしても。戦争や資本主義は奪う世界だ。しかし、矢が飛んでこようが、槍が降ろうが、あるいは筋骨隆々の男どもが束になってかかって来ようが、エヴァ・グリーンの魂は奪えない。「夢見る者」の魂はその姿を見る私たちに引き継がれるのである。