『やさしい人』ギヨーム・ブラック田中竜輔
[ cinema ]
ギヨーム・ブラックが『女っ気なし』に続けてヴァンサン・マケーニュとのタッグで手掛けた長編『やさしい人』にまずもって惹きつけられるのは、やはり前作と同じく試みられる16ミリでの撮影だ。水彩の絵の具が混ざり合ったような、さまざまな事物の「あいだ」の質感。どこからどこまでが人物でどこからどこまでが背景なのか、あるいはどこからどこまでが「私」でどこからどこまでが「あなた」なのか。何かと何かを区分するパキッとした「輪郭」ではなく、何かと何かが絶えず混ざり重なり合うさまを映し出す「あいだ」のぼんやりとしたきらめきを見つめることで、さまざまな事物の多様な「リズム」の衝突を『やさしい人』は聴き取っている。
「お互いのリズムで生活しよう」と、寝ぼけ眼で父親(ベルナール・メネズ)に呟くミュージシャンのマクシム(ヴァンサン・マケーニュ)は、パリから故郷トネールに帰省している。暗い部屋でいくつかの楽器とコンピューターに向かい合ってたったひとりで音楽をつくる彼には、なるほど彼自身の「リズム」というものがあるようだ。深夜にアンプの音量を抑えてギターを弾き、声を潜めて歌を録音し、昼近くまでベッドから出ない。そんな生活を基調とする彼にとって、朝7時に目を覚ます父親と一緒の昼食を取るというのは、決して自然なことではない。マクシムにはマクシムのリズムがある。しかし、とはいえ一方で、早起きの父には早起きの父の、あるいはワイン農家にはワイン農家の、ダンス教室にはダンス教室の、サッカー選手にはサッカー選手の、そして犬には犬のリズムというものもまた、マクシムのそれと同等に存在するはずだ。私たちは誰もが自分の「リズム」にだけ従っていればよいというわけではなく、つねにほかの誰かの異なる「リズム」との衝突を生きねばならない。そこに生じた軋轢がもたらすある種のヨレやタメやズレにこそ、己の日常と呼ぶべきものを私たちは獲得しているはずだ。
ミュージシャンという職業の孤独なリズムに没頭していたマクシム。しかし彼はひとりの女性記者との出会いから、雪深いトネールという街の大らかな日常のグルーヴへと足を踏み入れるようになる。「メロディ」という示唆的な名前を有する彼女は、日常の中に秘められた街の微かな音調とでもいうべきもの――ワイン農家との対話、女性限定のダンス教室の熱気、あるいは地下に隠された秘所――を、自身の行動をもって掘り起し媒介し(地方紙の記者とは、おそらく比喩でなく、そのような仕事を為す人のことであるだろう)、マクシムのリズムを徐々に崩落させてゆく。いつしかマクシムは己のリズムを維持することよりも、その端緒となった「メロディ」それ自体を直接的に求めることに執心するようになる。
しかし終盤、マクシムはある日唐突に「メロディ」を失い、「沈黙」のもたらす恐怖に怯え、我を見失ったかのような凶暴な行動に出てしまう。私たちを当然驚かせるだろうこの展開は、だが決して突飛なだけの変調であるようには思われない。この事件はたしかに取り返しのつかない悲劇であるが、しかし同時に「沈黙」という何かを喪失する出来事にさえそれ固有の「リズム」があり、私たちを揺るがす何かを与えてくれることを示してくれてもいるからだ。私たちは日常に対し何かが新たに加えられるばかりでなく、何かが失われてしまったのだとしても、そこにほんの少しの「リズム」の乱れを見聴きすることができれば、失われたもの以上に「ロマンティック」な秘められた何かを掴むことができるかもしれない。そのようなチャンスを生み出す術としての映画を、『やさしい人』は実現している。