『下女』キム・ギヨン常川拓也
[ cinema ]
姉と弟が愉しげにあやとりしているオープニング・シーン。幸福な家族然としたその場面に重なるのは、正反対であるはずの大仰で不吉な音楽だ。姿形を変えては絡まるあやとりの糸は、蜘蛛の巣のようでもあり、絡みつく女の性を想起させる。そして、いつほどけるかも知れないあやとりの脆さは、突如訪れる不穏な死を連想させもする。その危うさが『下女』を象徴している。
一見円満な暮らしを送るブルジョワ的な一家を舞台にした『下女』において、男は父トンシクと息子のふたりしか出てこない。その暮らしの表面的な「健全」さを体現するかのような彼らに対して、残る登場人物である女たちは「健全」とは言いづらい。家庭にすべてを捧げている身重の母、麻痺した足を引きずりながら杖を使って歩く娘、そして喫煙(この時代の韓国内では喫煙女性は稀なようだ)、つまみ食い、窃視、しまいには家庭のすべてを奪おうとする下女ミョンジャ。社会的に抑圧された女性像、欲求不満を抱えたまま不自由に生きる女性の姿が裏に隠されているのではないだろうか。
また『下女』は、徒歩や車による移動場面や電車が通過する風景ショット以外にはほとんど室外の場面がなく、室内の場面ばかりで成り立っている。室内の撮影においては、扉の開閉が強調されている。世間と隔離され、家から出ることの許されない女たち。閉められた扉が内と外を断絶し、世界を二分していく。家庭に閉じ込められた女たちを象徴しているかのようなネズミは彼女らにとって自らの映し鏡であり、恐怖の対象となっているが、唯一ミョンジャだけはまったく恐れている素振りがない。『下女』における世間と隔離された女たちというのは、男性中心の社会が女性を押し込めることでその恐怖心を隠していることの表れだとすると、ミョンジャはその恐怖を体現する象徴的な存在となっている。ミョンジャが「健全」な家族幻想の真の姿を暴いていくのだ。この映画においては、トンシクよりもミョンジャや彼から音楽を習う女工など女の方が性に対して積極的とも見える人物配置がされている。盗視するミョンジャの中には破壊願望が伺え、その誘惑に傾いたトンシクは身を滅ぼしていく。
2階でピアノを弾くトンシクや娘の生み出すメロディが、一見平穏なこの家庭のリズムを生み出しているように見える。だが、ミョンジャの怨念によって生み出される単調なピアノのメロディがこの家庭のリズムを崩していく。隠されていた偽善を暴きだすミョンジャのリズムが一家を、ミョンジャの怨念が世界を支配するようになっていく。おそらく『下女』の凄みは、我を忘れるほどのミョンジャの怨念(あるいは情念)が物語を超越して、映画内の世界全体をも支配してしまうところであろう。『下女』において、豪雨や雷は情念に加担する装置なのであり、トンシクとミョンジャが一線を越える瞬間には文字通り引火という現象が起こる。表現が、単なる意味を超越していくのだ。
一階の身重の妻や足が不自由な娘と二階の下女とを断絶する階段。その間を彷徨うトンシク。階段上に立つトンシクを下から見上げるように撮られたショットが父権性を際立たせ、彼が家庭内で最も権力を持つ者だと表現しているかのように見える。次第にトンシクを魅惑し最大の権力者となっていくミョンジャ。ミョンジャがトンシクに絡みつくラストにおいて、その狂気、壮絶な情念、あるいは女性という存在への不安や恐怖を、照明によって造られる鮮烈なビジュアル=大きく歪んだ影が表現する。階段というこの作品の重要な背景は、ある種ゴシックで悪夢的なイメージを持ち込んでいる。それは嫉妬したミョンジャが女工を男性器を思わせる包丁で刺殺する場面へとつながっていき、そこに性的な意味合いを付与する。ミョンジャを絞殺しようとするトンシクは昇天したような表情を浮かべ、そのふたりの構図はまるでフェラチオだ。つまり、性と死が隣合わせにあるのだ。交尾後にメスがオスを喰ってしまう虫のように。オスを喰らう女郎蜘蛛の如きミョンジャの怨念は、父権性に依存しがんじがらめになった女性像からの解放をも試みているのではないだろうか。『下女』に感じられる対女性への恐怖心は、男の深層心理の中に潜む、その革命への恐れも含まれているのだ。