『息を殺して』五十嵐耕平高木佑介
[ cinema ]
上映終了が間近に迫っているが、五十嵐耕平の『息を殺して』が川越スカラ座にて上映されている。舞台はゴミ処理工場の内部とその近辺にあるとおぼしき森のみ。新年の訪れが朗らかに祝われそうな気配はなく、人々は皆一様に声が小さく活力が感じられない。年末ということで仕事納めは済んでいるはずなのだが、彼らが一向に家に帰ろうとしないのは、その工場の外側が大して面白くない場所だからだろうか。倦怠感や閉塞感に似た雰囲気がフレームの内外を取り巻いているのが人々の会話や画面から感じられる。奇抜な出来事が終止何も起こらない『アフター・アワーズ』(1985)を見ているような、強面の看守も刑務所長も脱獄計画を企てる輩も出てこない刑務所映画を見ているような、一見すると退屈で神経質な作品という印象を受ける。でも、とても面白く見た。おそらくそれは、そこにいる誰しもが、近くにいる他の誰かのことや、そこにはいない誰か/何かのことをつねに志向しているからだろう。とりとめもない会話のひとつひとつが、少し力を加えればすぐに切れてしまう糸をそっとたぐり寄せるように、人物と人物の関係を、あるいはそこにはいない誰かとの関係を慎重に結びつけていく様がとても良い。物事を円滑に進めるために、人間関係を手っ取り早く広げるために、コミュニケーションとして人と人が繋がっていくことは容易いのかもしれないが、そもそも繋がるはずもなかろうもの同士を結びつけること、そしてそこに生起した関係の束の質そのものを変容させていくことは難しいことだ。もちろんそれは、映画がこれまで培ってきたもの、そしてこれからも試みられるであろうものの難しさであり面白さでもある。少なくともこの『息を殺して』は、そういった作業をないがしろにすることなく、慎重かつ誠実に、人物と人物の間、そして過去・現在・未来の間のようなもの、いわばひどく捉えがたく確証のないものの「手触り」を感じさせてくれるような美しい作品に仕上がっている。だから、タニちゃん(谷口蘭)が、すでにその場を立ち去った人物が先ほどまでいた空っぽの空間にそっと手を伸ばしてみる瞬間がとりわけて印象深く見えてしまう。すでにそこにはいない人の痕跡もしくは不在を確かめるように、あるいはやがてそこに訪れるかもしれない誰か/何かの気配を探るように、その手は「そこ」に伸ばされる。かつてそこにあったもの、いまはまだそこにはないものの「手触り」を感じ取ろうとすること。この映画の時代設定が近い未来であるらしいことや、過去の亡霊たちが不意に現れるという奇妙な展開をみせる物語であること以上に、空っぽの空間に手を伸ばすその何気ない瞬間に、さまざまな時間が呼び込まれているような気がした。もちろんカメラには何も映っていないので、それは気のせいでもあるのだが、映っていないが故にそうした見えないものの繋がりや感触を逆に強く意識させる作品となっている。そして、嫌でもいろんなものが目や耳に飛び込んでくる日常を生きているからこそ、それはとても感動的なことのように思われた。
最後に、まったく単純なことだけれど、この映画はタイトルがとても良い。「息を殺して」。実際、彼らはささやくように会話をする。何かから身を隠しているようでもあり、何事かの到来をーーそれこそ「息を殺し」ながらーー待っているようにも見える。単にタイトルが似ているということもあるが、ヤン・イクチュンの『息もできない』(2008)が体現していた「怒り」や「叫び」の強度に惹き付けられるのと同様に、この『息を殺して』の「ささやき」もまた、現在という時間を生きるにあたってとても意義深く感じられてしまった。「叫び」か「ささやき」かではなく、ささやくように叫んでいくことはできないものかと。