« previous | メイン | next »

December 6, 2014

『自由が丘で』ホン・サンス
隈元博樹

[ cinema ]

 映画のなかの時間とは、ほんとうに厄介なものだと思う。どんな映画を見るにしろ、私たちはある決まった上映時間のなかで数多のシーンを目撃しつつ、物語の顛末や登場人物たちの過程を知るために、そのほとんどを映画のなかの時間に負うているからだ。だからその時間とは、基本的に登場する人物の行為や物語に委ねられている。そして時間を操作することのできる作り手は、そうした時間の経過を説明するための所作さえも必要とされるだろう。
 しかし『自由が丘で』をただよう時間とは、ひとえに人物の行為や物語に縛られたものではない。それはこの映画の時間が、どんな口実や論理さえも必要としない世界のなかを歩き続けているからだ。その発端は、韓国を訪れたモリ(加瀬亮)の残した手紙を、かつての恋人のクォン(ソ・ヨンファ)が咄嗟の立ちくらみによって階段上でバラバラに落としてしまうことにある。日付も時間も書かれていない数枚に及ぶモリの手紙は、無造作に拾い上げられた彼女によってランダムに読まれていく。彼が「自由が丘8丁目」のカフェへ初めて行ったこと、カフェの店長であるヨンソン(ムン・ソリ)と食事に出かけたこと、彼女の犬を見つけてあげたこと、嫌みなプロデューサーのグァンヒョン(イ・ミヌ)に腹を立てたこと、いまだに叔母の脛をかじっているサンウォン(キム・ウィソン)と仲良くなったいきさつ......。見事なままにバラバラなモリの行為やできごとに、決められた時間や順番は存在しない。モリが読み手の彼女へ会うまでの時間とは、彼がいつ何をしようともその順序や過程を問われることはないのだ。
 モリの存在を物語るための行為やできごとに、その経過や順序を裏付ける時間は存在しない。そのことと引き換えに、この映画は確実にモリの行為やできごと自体を浮き彫りにしていく。モリが「いつそれをやったのか」が重要ではなく、手紙に書かれたそれぞれの断片をめぐりながらも、同時に彼は手紙を読む彼女の時間とともに生きている。モリが吉田健一の「時間」を肌身離さず持ち歩いていることも、その時間を生きることと決して無関係ではないだろう。彼らの行為やできごとは、解放されたこの映画の時間によって洗練され、手紙を読むクォンの時間として見事に息づいているのだ。
 時間に縛られすぎてしまうことは、映画そのものをつまらなくすることがある。あくまで時間がものごとの順序を是正する指針だとするならば、絶えずその時間軸の整合性に悩まされるだろう。映画は時空を飛び交うシーンとその往復運動によって生まれるものであるがゆえに、時間軸が決定的な破綻を迎えてしまうこともある。だけど時間を取り締まる査察官のようになるのもいかがなものか。だからこそ映画のなかの時間とは、ほんとうに厄介なものだ。だけど『自由が丘で』にただよう時間は、そんな厄介であるはずの時間さえも、ふと愛おしくなる瞬間に溢れている。

main.jpg
© 2014 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

12/13(土) シネマート新宿ほかにて全国順次ロードショー
(公開初日には加瀬亮、ホン・サンスによる舞台挨拶も決定!詳しくはこちらのfacebookページにて)