『さらば、愛の言葉よ』2D版 ジャン=リュック・ゴダール @横浜シネマリン結城秀勇
[ cinema ]
2014年度ベストでも書いたことだが、この映画についてどう語るべきなのかを悩んでいた。つまり自分がこの映画で見たものと同じものを、自分以外の人たちも当然のように見た、という前提に立ってよいのかわからなかったのだ。もちろん、人と話せば「タイトルの3Dって文字が飛び出してたよね」とか「右目だけパンする画面があったよね」とか、自分が見たと思うものがたしかにスクリーンに映っていたらしいことは確認できる。だが「なにを」見たのかと同じ水準で、「どう」見たのかについても語りうるのか。それは視覚情報をどう処理したのかということではなく、どこまでが視覚情報そのもので、どこからがその情報の受容の仕方に関わるものなのか、という線引きの難しさとでも言おうか。無論『さらば、愛の言葉よ』は、ゴダールについての知識があろうがなかろうが、映画についての感受性があろうがなかろうが、誰がどう見ても「こんな3D見たことない」という感想が出る映画なのは疑いようがない。でもそれだけではなんだか『さらば、愛の言葉よ』について言えることは結局のところ「3Dで見たよ」ということでしかないような気がしていたのである。この作品が3Dの可能性を切り拓いているのは間違いないとしても、そのことと映画の可能性を切り拓くことは同じことなのか、少し重なっていることなのか、まったく別のことなのか。
そんな中、様々な縁もあり一度訪ねてみたかった横浜シネマリンで『さらば、愛の言葉よ』の2D版を見る機会に恵まれた。それは奇妙な体験だった。たとえば、3D版を見た誰もが口にする、右目と左目がそれぞれ違う映像を見る場面は、二種類の映像がスクリーン上でオーバーラップする場面に変わる。階調の壊れた三原色の色彩に染まる場面は、3D版ではその中でも飛び出したり飛び出さなかったりしていたが、2D版では奥行きや距離感を欠いた世界として目の前に広がる。そして一番驚いたのは、3D的な効果(飛び出したり飛び出さなかったり)の残滓のようなものが、2D版では解像度の違いとして画面に刻まれているように見えたことである。そうした差異の中で、ほとんど無意識に脳内で3Dヴァージョンを再構築しようとしている瞬間もあり、あるいは(右目だけがパンする場面のように)意識的に「片目でそれぞれ違う映像を見ろ」と自分に言い聞かせる瞬間もあった。なんだか謎のトレーニングをしている気分になった。
しかしそれが3D版を見ていて気になっていた部分をいくらか説明してくれた気がする。「世界を犬の目で見ろ」というのは『さらば、愛の言葉よ』の最もわかりやすいメッセージであり、それはつまり、あらゆる記号がその意味とは無関係なところで近く見えたり遠く見えたり、色彩が変調したりする、記号の氾濫する世界を受け入れその中で「記号の革命的な力を知覚」しろということだろう。アパッチ族がかつてそう呼んだと語られる通りの、記号の「森」としての世界を。だが、3Dを通じてならそこにたどり着くことが出来るという回答では、あまりに安易にすぎるのではないかと思うのだ。だから、劇中、女性の不倫相手である写真家が口にする次の言葉が、この作品を初めて見たときからずっと引っかかっている。「森を表現するのは簡単だ。だが森の近くの一軒の小屋を撮るのは難しい」。
3D版『さらば、愛の言葉よ』には「森」が映されている、「森」を通り抜けられる、というだけでは不十分なのだ。 「ユリイカ」のゴダール特集に再録されている「ル・モンド」のインタビューの中で、ブレッソンについての質問をされたゴダールは、次のような謎めいた返答をする。「私なら、行きと帰りがあると言うだろう。私は潜水して、水面に浮上するというイメージが好きなんだ。水面から出発して、底まで行く、それから浮上する。そうした事柄だ」。森に沈みこみ、浮かび上がる。それが森のそばの一件の小屋を撮る方法なのではないか。行きはメガネをかけて、帰りはメガネを外して。
3D版が体験すれば誰でもわかるゴダール流「初等科教育」なのだとしたら、2D版はメガネなしでそれを構築するための応用編なのかもしれない。どのくらいの劇場で見れるのかはわからないが、3D版を体験したうえで、2D版を見ると面白いので是非やってみてほしい。