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March 14, 2015

『ドノマ』ジン・カレナール
楠大史

[ cinema ]

この作品を見て、いまだに戸惑いを隠し切れない自分がいる。観客に対してここまで挑発的な姿勢の映画も、近年では珍しいのではないか。ジン・カレナールの『ドノマ』は良くも悪くも、映画の新しい形式をこれでもかと突きつけてくる作品である一方で、その基盤にはフランス映画がこれまで培ってきた即興演出の流れをも強く感じさせる。不思議な作品であり、こう言ってよければ怪作だ。
とはいえ『ドノマ』の面白さは、その新しい形式自体にあるのではなく、映画そのものの内情を恐れずさらけ出すような大胆不敵さにある。いわゆるアール・ブリュット(アウトサイダー・アート)の感触にそれは近いのかもしれない。『ドノマ』では、まるでカメラのファインダーを覗いて対象物にピントを合わせるがごとく、あからさまなフォーカスとアウトフォーカスが同じ場面で幾度となく繰り返され、ショットが変わるごとに対象物との距離もその都度リセットされる。まるでカメラが対象に当たる光と影を映し撮ろうとして、逆にその光と影に翻弄されているかのようだ。どこかドキュメンタリー的とも呼べなくもないそのようなカメラの不安定さは、役者たちの演技とカメラワークの即興性に結びつけられ、作品の魅力へと転化させられている。
ジョン・カサヴェテスの『フェイシズ』を彷彿とさせられるほどに、人物の顔へのクローズアップは多い。ただし『フェイシズ』と『ドノマ』との間に異なる点があるとすれば、それは顔を捉えるカメラ自体の位置である。『ドノマ』のクローズアップの多くは、ちょうどお腹のあたりでカメラを構えているかのようなアングルから撮られている。というのも、このフィルムには二眼レフカメラを用いて写真を撮影している登場人物がいる。この人物が構えるカメラの位置からこの映画が映し出す世界が覗かれているのかもしれない、といったことが、このお腹の位置からのクローズアップには示唆されているというわけだ。
いわば二眼レフカメラ視点とも呼べる正方形のフレームに縁どられたその視点は、たとえばエリック・ロメールの映画で主人公たちが今後の運命を知るために読む星座占いのような、スクリーンの向こう側の世界とこちら側の世界とが交信を図る、作品のメタフィジックな一面を表す装置としての機能を担っている。正方形のフレームは、もちろんつねに登場人物の構えるカメラと結び付いたヴィジョンであるわけではなく、一方でどれが映画からの視線であるのかを判別することも難しい。しかし、この正方形のフレームは私たちの目前に唐突にその姿を表し、世界の見え方を変形させては唐突に消えてしまう。このフレームのある世界とない世界を対比させることは、フレーム内/外を超えた引力が人と世界に対して作用しているかのように感じさせる。
アンドレ・S・ラバルトによれば、カサヴェテスの夢はカメラを必要としない映画、「アクション」や「カット」を言う必要のない映画だったという。しかし、ジン・カレナールはそうした夢に取り憑かれつつ、私たちの意識とその夢との関係性を探るように、一見不安定なマチエールに基づいているショットたちを、巧みに繋げ、まったく異なるストーリーたちを交錯させることによって、世界に対する多元的なヴィジョンをひとつの作品に提示している。

第18回カイエ・デュ・シネマ週間in東京にて3/15に上映