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April 15, 2015

『La Sapienza(サピエンツァ)』ウジェーヌ・グリーン
茂木恵介

[ cinema ]

「工場は現代のカテドラルだ」という台詞を聞いたとき、スクリーンに映し出されるのは取り壊され半ば廃墟のような工場跡の映像であった。工場が資本主義の象徴のひとつであることは言うまでもない。昔、どこかのお偉いさんに「工場はひとつの村だ」と言われた記憶があるが、大工場を持つ企業がある地域の産業を支えており、その周辺に住む多くの人たちはその企業に勤め、工場に通勤している。加えてその地域の行政がそのような企業と雇用者たちの税金によって成り立っていることを考えてみれば、教会が大きな権力を持っていた時代とのある種のアナロジーを見つけることができるだろう。
ウジェーヌ・グリーンの『サピエンツァ』は、こうした資本や権力に直接関わる職業である建築家を主人公に据えている。しかし、主人公がまず行う行動はこうしたドロドロした世界からの逃亡である。関係が冷え切っている妻とともに。逃亡先はイタリア。どこかロッセリーニを想像してしまうこの設定は、湖畔で出会うイタリア人兄妹との出会いによって、新たな様相を呈してくる。この兄妹の兄の方は建築家を目指しており、主人公とともにイタリア語で会話をしながら、主人公の旅の目的であるバロック建築の建築家のひとりであるフランチェスコ・ボッロミーニの建築を見にローマに行く。夫を見送り、ひとりでマッジョーレ湖に残った妻は、同じく兄を見送った妹の部屋でフランス語での対話を重ねていくことになる。
フランス語とイタリア語、マッジョーレ湖とローマ。抑揚とリエゾンが廃止されて発声される異なる言語が、田舎と都市、あるいは市民の家と教会という異なる風景、異なる空間の中で重層的にやり取りされる。この対比の中で行われるそれぞれの対話はいつしか同じ主題を巡るものとなっていく。それは光だ。建築家ふたりの対話は、文字通り建築における光を巡るものであり、妻と妹の対話は心や精神にまつわる光のそれである。互いに抑揚のないリズムの重層的な対話はいつしか、いくつかの光(美学的、心理的、精神的)を巡る変奏曲となる。
ところで、この作品には工場と教会のアナロジー以外にもうひとつ別のアナロジーがある。それはグリーンとエリック・ロメールとの間のアナロジーだ。両者の関係については、70年代パリで学生をしていたグリーンが、ロメールの授業を受講し、その後も交流があったということにのみ触れておくが、今回は『サピエンツァ』の主題の一つでもある光という観点から、両者のアナロジーに触れたいと思う。それは、ロメールの『満月の夜』における登場人物が偶然出会う、見知らぬ人との会話のシーンの中に見ることができる。
この作品で描かれている世代、立場を超えた登場人物たちの光を巡る対話は、ロメールの『満月の夜』同様、ある見知らぬ人物の登場によって新たな局面を迎えている。『サピエンツァ』の場合、終盤に登場する異邦人 (グリーン自身が演じている。彼もまた母国であるアメリカに決別をした人物だ) と建築家の妻との間での会話であり、『満月の夜』の場合は、ラズロ・ザボ演じる画家とパスカル・オジェ演じるヒロインとの会話である。どちらの作品でも会話の主題となるのは光を巡るものであった。太陽の光、月の光。ふたりの見知らぬ人物は光源が異なる明かりの効果を語り出す。どちらの光も人を変える、太陽は人を救済し、月は人を後悔へと苛ませる。ロメールが描いたシナリオは、グリーンの描いたそれとは異なる形のものとなっているが、光が人を変えるということ、そしてその光源が太陽か月かという対比、太陽と月の明かりが人に及ぼす心理的作用の差異を描く演出。ここにはグリーンとロメールとの間にある光と人間との関係を巡る思考の不思議なアナロジーを見出すことができるだろう。
光を巡る対話の変奏、世代、立場を超えた人々の対話の変奏、そして映画作家たち(ロッセリーニやロメール)へのオマージュの変奏。幾つものヴァリエーションが美しい湖畔のパノラミックな映像と共に終わるこの作品が、もし日本で公開されることがあれば是非見てもらいたい。


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『La Sapienza (サピエンツァ)』
監督・脚本:ウジェーヌ・グリーン
出演:ファブリツィオ・ロンジョーネ、クリステル・プロット、アリアンナ・ナストロ、ルドヴィコ・スッチオ、ウジェーヌ・グリーン