『皆殺しのバラッド メキシコ麻薬戦争の光と闇』シャウル・シュワルツ常川 拓也
[ cinema ]
100万人が住むメキシコのシウダー・フアレスは、年間4000件近い殺人事件があり、警察は麻薬組織からの報復を恐れて黒い覆面を被って事件現場に向かう。この「世界で最も危険な街」フアレスからひとつの川を挟んだ国境の向こうには、年間殺人件数5件の「全米で最も安全な街」エルパソがある。イスラエル出身で米ニューヨーク在住のフォトジャーナリストであるシャウル・シュワルツ監督は自ら撮影も務め、シニックな視点でめまいを覚えてくるほどの強烈なギャップ(落差)で溢れる、恐ろしくシュールな現実、腐敗した国家の成れの果てに踏み入れていく。
メキシコ麻薬戦争によって形成されていった「麻薬(にまつわる)文化」に焦点を当てた『皆殺しのバラッド』は、麻薬密輸の世界を歌ったバラード「ナルコ・コリード」の歌手エドガー・キンテロと、日夜麻薬カルテルと戦う──といっても、その職務のほとんどはギャングによって殺害された死体を回収して書類を作ることであるが──真面目な警察官リチ・ソトを追っていく。牧歌的で朗らかなサウンドのコリードは今や麻薬王を賛美する叙事詩となり、メキシコ国内の若者やアメリカに住むラティーノの間で熱狂的に受け入れられている文化となっており、それと同様にアウトローを英雄視するナルコ映画も人気である(ナルコ映画は本物のギャングが自らギャングを演じている点で『アクト・オブ・キリング』を思い出させるが、シュワルツはワルを糾弾するような作為的な作りにはしていない)。
「邪魔するヤツは頭を吹っ飛ばす」──犯罪が凶悪化し殺人が日常茶飯事(命の値段は激安)の荒れ果てた街フアレスで、犯罪者になるか犠牲者になるかしか選択肢がないようなノー・フューチャーな若者たちにとって、ステージ上でバズーカ砲を担いで歌うナルコ・コリードが革命的で反政府的なかっこよいものに思え、憧れの対象となることは理解し難いことではない。同じように暴力的な歌詞のギャングスタ・ラップと似ているかのようにも思えるが、しかし、このふたつのカルチャーは大きく異なっている。その人間が実人生で体験してきた「リアル」をラップとして吐くギャングスタ・ラップと明らかに異なるのは、ロサンゼルス育ちのメキシコ系アメリカ人キンテロは、実際にはメキシコに行ったことなどなく、ギャングにより依頼されてその武勇伝を書いていることである(彼はインターネットを通してでしかその「リアル」を知らないのである)。そこで歌われているのは、あくまでも他人の「リアル」であり、彼もまたほとんどギャングに憧れるワナビーである。悪魔の歌ナルコ・コリードはヒップホップとは異なり、聴く者の心に刺さるような切実さを持った詩で感情を表現し伝えるものではない。コリードにあるのは、まさしく麻薬のような音楽の陶酔と享楽である。狂気と諦念の果ての世界にあって、音楽によって生み出される心地のよい快楽は、歌の意味や内容のモラルを超えて人々を熱狂させ、そのヴァイブスは彼らの倫理観や価値観をも変化させうるのである。
『皆殺しのバラッド』で冷静に見据えられるナルコ・カルチャーへの狂熱は、麻薬カルテルの極悪ギャングたちをロビン・フッドと見なし憧れてしまう若者が抱く絶望から生まれるヒロイズム、あるいは暴力賛美の悪魔崇拝へと導く恐ろしい力が、ポップ・カルチャーにはあることをまざまざと示している。そして『皆殺しのバラッド』を通して見えてくることは、ポピュラーな音楽や映画の持つ力が、死やギャングを娯楽や憧れのイメージとして消費させてしまうことであり、カルチャーにより変容していく社会のあり方や流れによって、人々のモラルがいかほど簡単に崩れていくかということである。
シュワルツは、死と暴力が日常化し、その恐怖に慣れてしまったフアレスの世界をキャノン5Dのクリアな映像で収めていく。フアレスの惨状を映し出す、まるで魂が行き場をなくしたかのようなどこか浮遊感のある映像には、悲愴的なスコアもあいまって無力感、やるせなさが漂い続けている。死と隣り合わせの「リアル」を生きるソトと、死を娯楽として消費するキンテロ──対照的なふたりの日常生活を並列してつなげることで、無慈悲な暗黒世界が諸行無常感をもって描き出されるが、ここでは交差することのない世界同士は触れ合うことなく、精神は鈍磨していく一方である。
『皆殺しのバラッド』の血や暴力の匂いが漂ってこないような端正な映像からは、本物の死体が映されているのにも関わらず、まるで「現実感」がないように思えてしまう。おそらくそのことは、本作が「ドキュメンタリー」っぽくないこととも無縁ではないかもしれない。思うに、アフガニスタン最前線におけるデンマーク兵に密着したドキュメンタリー『アルマジロ』しかり、我々が知っている日常とはあまりにかけ離れた残酷な現実世界を「劇映画」的な作り──インタビューや過去の映像を中心に置かず、ナレーションも排した構成で、(カメラを意識しすぎずない)被写体の視点で世界を見ていくような作り──で描くことを試みた「ドキュメンタリー」は、もはやフェイク・ドキュメンタリーのように見えてきてしまう部分が少なからずあるからだ。映像を通して暴力のスリルや死の恐怖を擬似的に体験している現代の我々観客にとって、映される現実そのものはむしろ退屈で、本当に限りなく近い虚構の方が、受け入れやすい「現実感」なのではないだろうか。
『皆殺しのバラッド』にある絶望と無力感は、アメリカや日本など先進国が決して無関係ではないグローバリズムによってメキシコの人々がすり潰されている悪夢に対してであると同時に、そのような社会から影響を受け高度に発達したカルチャーへ刺激を欲求し、麻痺した人間の倒錯した感覚へのジレンマによってである。