『パロアルト・ストーリー』ジア・コッポラ 四倉諒太郎
[ cinema ]
ジア・コッポラは『パロアルト・ストーリー』の監督を、職人的にこなしている。この作品は、ジアのセンスを堪能する映画ではない。『ヴァージン・スーサイズ』(1999)や『ガンモ』(1997)のような、ソフィア・コッポラやハーモニー・コリンの処女作にあった被写体への愛情を期待すると、大きく評価を損ねてしまう。ここでジアに対する評価を「ソフィアやハーモニーよりセンスがない」としてしまったら、それこそ不幸なことだ。なぜならジアにとってこの映画は、ジェームズ・フランコによる雇われ仕事であり、雇われることによって、ソフィアやハーモニーの処女作にあった被写体への盲目的な愛情――それが例え絵画的であろうがジョナス・メカス的であろうが――が欠落してしまった映画なのだから。
映画は淡々と、エイプリルという少女と不良少年テディの日々を綴っている。エイプリルは自身の所属するサッカークラブのコーチが気になっていて、テディは交通事故を起こして12か月保護観察処分を受けている。エイプリルは進路に悩み、コーチと恋におち、テディは保護観察処分の期間にもかかわらず悪友のフレッドに振り回される。
原作はジェームズ・フランコによるもの。地元であるパロアルトへの彼の愛情だけで綴られた物語を面白くすること自体、難度は高い。本来、それだけ地元に愛情があるならば、フランコは自ら監督するべきであった(それはソフィア的でもあり、ハーモニー的でもある)。この映画をパロアルトに彼ほど愛着のないジアに任せたこと自体、妙な話で、おそらくフランコが自作の映画化にジアを指名したのは、ラリー・クラーク以後の、家族アルバムの延長上にある、ホームビデオのような青春映画を作りたかったから......ではなかろうか(現に監督依頼のきっかけはジアの写真集をフランコが気に入ったからである)。
ジア・コッポラはジェームズ・フランコのそんな原作と期待に対して、職人として応えている。エイプリルの部屋に飾られた『ヴァージン・スーサイズ』のポスターも、テディがハイになって夢見る自身のウサギの着ぐるみ姿も、フランコの意図に対して忠実に応えようとした結果だ。郊外の白人の若者を撮るには、ソフィアやハーモニーのやり方を真似するしかないじゃないかと言わんばかりに......。概形化した『ヴァージン・スーサイズ』や『ガンモ』のイメージが、たとえ映画そのものの「被写体に対する愛情のなさ」を告発しようとも、である。
一方で『パロアルト・ストーリー』には、映画的なドラマを生み出そうとするジアの姿も垣間見ることができる。混沌とした『ヴァージン・スーサイズ』や『ガンモ』の空虚な剽窃と、ただただ滑稽なかっこつけを演じるフランコの見るに堪えない演技とプロットですらない退屈な物語の中で、オープニングタイトルの出し方や、交通事故のシーン、闇夜で少年ふたりが扱うチェーンソーのスリル、何より、若者たちのフェラチオとセックスをしっかり撮るジアの監督としての潔さに、見世物としてのサービス精神を感じることができる。ソフィアやハーモニーがどこか本腰になれない映画本来が持つ見世物や性的な要素に、ジアはちゃんと向き合っている(公式サイトのproductionで語られた70年代青春映画の要素は、こういう部分で活きているような気がする)。
僕は、ジア・コッポラはセンスの人ではないと思う。彼女には見世物としてのサービス精神がしっかりある人で、それは、本作では拙く曖昧だが、確かに感じ取れるのだ。