『パプーシャの黒い瞳』ヨアンナ・コス=クラウゼ、クシシュトフ・クラウゼ 長谷部友子
[ cinema ]
冒頭、けたたましいソプラノがジプシーについて歌い出し、一体何がはじまったのかと思った。どう考えたってこれはジプシーの音楽ではない。多分これはオペラなはずで、しかし何故こんなことになっているのだろう。この不自然さ、なにかおぞましいおどろおどろしい不穏なものがはじまっていく感覚こそがこの映画をもっとも端的にあらわしているように思う。
このオペラの歌詞を書いた人物は、「パプーシャ」(人形)という愛称で呼ばれる史上初のジプシーの女性詩人プロニスワヴァ・ヴァイス。ジプシーたちは、文字をガジョ(よそ者、ジプシーでない者の意)の呪文、悪魔の力だと忌み嫌うが、文字に惹かれたパプーシャは、旅先で商店の奥方に文字を教えてほしいと頼み、盗んだ鶏を対価に自らの意志で文字を覚えた。その文字によって彼女が書きあげた詩は、若き日の詩人イェジ・フィツォフスキにより出版され、パプーシャは一躍時の人となる。だがその一方で、ジプシーのコミュニティー内では裏切り者として迫害され、彼女は貧困の中つらい晩年を送る。冒頭のオペラは、晩年の彼女が詩を表彰される場で歌われたものだ。だが、彼女の生涯の功績を讃える華々しい舞台であるはずのその場所で、パプーシャは「私は詩など書いていない」と自らが生み出した作品の存在を最後の最後まで否定する。
この映画では説明なく静かに場面が描写される。何の力みもなくはじまり、するりと終わり、場面はころころと変わり、時間軸も過去と未来を何度も往復していく。硬質な静けさの中描かれる、言葉と音楽、男と女、ジプシーとガジョ。単純な二元論ではないが、それらは絡み合い交わりあうというより、どこか冷たく突き放され、境界を露わにされ、引き裂かれ続ける。そしてその引き裂かれた裂け目より見えるものをパプーシャの黒い瞳はうつし続けているように見える。それを非難するでも、嘆ききるでもなく、ただじっと見つめ、見届ける、その瞳の黒さに私は目眩を覚える。今も昔も、私たちもまた、彼女の瞳が見つめるものに似た何かに絶えず引き裂かれていることを切実に思い出させられる。
冒頭のオペラの続きが仰々しく鳴り響き、映画は終わっていく。今度はオペラ歌手が歌う画面ではなく、雪が一面に広がる野原を、ただジプシーの馬車がのろのろと走りつづける姿がうつし出される。数台の馬車はある道でわかれていく。遠景でひきながら、ただ馬車を映し出す不自然に長いその場面を背景に流れる呪わしいような重厚なオペラ。あの長いラストシーンは、この世界に暮らしているというのにあたかも私たちがジプシーの世界に、あの厳しい自然の中にのみこまれていくような錯覚に陥らせる。それを前にどんな言葉も値しない。われわれから言葉が奪われていく。