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July 6, 2015

『約束の地』リサンドロ・アロンソ
渡辺進也

[ cinema ]

new century new cinemafilm commentで紹介されているように、数少ないリサンドロ・アロンソのフィルモグラフィーで繰り返し描かれてきたのは、孤独な男が、孤独な場所で、孤独に時を過ごすその様である。『La libertad』における木こりの男の1日の時間。『Los muertos』における刑務所を出た男のその後の時間。『Fantasma』における自分の出た映画(その劇中映画は前作『Los muertos』)を映画館で見ようとするその男の過ごす時間。『Liverpool』における、船に乗った男が持つその時間。そして、男の生活やその環境までを、豊かな映像と音響によって描写していく。叫び狂うチェンソーの音が、船で下る川面のゆるやかなざわめきが、ホテルのロビーから見える道路に走る車の騒音が、そして船が波を切る音が、ほとんど台詞を発することのない男の生活をその言葉以上に雄弁に物語っている。リサンドロ・アロンソの作品は、どれもあらすじを説明すれば、たった一言で済ませられるような映画ばかりである。しかしそこには、確かな時間というものが存在している。
最新作『約束の地』においては、これまでの作品に比べるとほぼ2倍近い上映時間となっているが、その上映時間が長くなっていることは、『約束の地』のなかに複数の時間が流れていることが理由であると、とりあえず言っておくのがいいように思える。
冒頭、デンマークから遠い地へとやってきた親娘の会話から始まる。岩に互い違いに座る娘と父親はそれぞれ別の方向を見ている。娘はこちら正面を向き、父親はずっと背中を向けている。囁き合うようなこの父娘の会話中、私たちは娘の佇まいを通してふたりの関係性を知ることしかできない。ヴィゴ・モーテンセンの姿をその背中を通してしか見ることができない。この場面はまるで、ふたりの時間でありながら、どちらか一方の時間が流れているように感じる。
そして、ヴィゴ・モーテンセンが初めてその表情を私たちに見せる場面は非常に劇的である。ある男が岩場にできた水たまりでマスターヴェーションするその向こう画面のはじっこにひっそりと姿を現すヴィゴ。そして、映像が彼の側へと切り替わると、浜辺に立つ彼のそのはるか後ろには先ほどのマスをかく男が見える。同時に海を見せていた背景が、今度は聳え立つ岸壁を映し出す。ほとんど動くことのない、ティモ・サルミネン(カウリスマキの作品の常連撮影監督)による映像は、同じ空間にある場面をまったく別のものとして過激に映している。
この映画で切り返しを選択するとき、いつもそれはこちらに驚きをもたらす。たとえばそれは娘を探索するなかで出会った、岩窟で生活する老婆との出会いの場面もそうであろう。岩窟の中に入ったヴィゴの姿が彼の視線の先へと切り返されるとき、彼は別の時間へと迷い込む。すぐ目の前であったものが、実は果てしなく遠くであったかのように。言ってみれば、『インターステラー』の父と娘が時空を超えて、2階の本棚の裏側で出会うあの再会の場面とが、『約束の地』では至る所で行われていると言ってもいいのかもしれない。
いなくなった娘を追いかけようと荒野を馬で駆け、雪振る岩山を歩き回るヴィゴの姿は『捜索者』を思い起こさせる。しかし、それがこちらの想像していたような終わりを迎えないことは、たったひとつの時空間への帰着ではない、複数の時間がそのままにあることの所以ではなかろうか。

『約束の地』ユーロスペースにて上映中