『冷たい水』オリヴィエ・アサイヤス 白浜哲
[ cinema ]
映画がエンディングを迎え川の流れる音が短くフェードアウトしていくと同時に、わたしの身体は再びいつもの重さを取り戻していた。『冷たい水』を見ることとは、まるで水のなかにいるようにふわふわと浮遊するような体験であり、また深く息つぎを繰り返すような重々しさを受け入れ、そこからの解放を伴なう体験であると言えるかもしれない。鬱屈を抱えた少女と、それに付き合おうとする少年の青春時代を描いたこの映画は、それがそのまま私自身もまた当時持っていた身体的なYOUTH(青年期)を呼び起こさせてくれたように思う。自分の思い通りにできないもどかしさと、まだ何者でもない自分の少年時代が、この映画の中の少年少女と重なりあっていく。
「水のなかにいるような......」という感想は、おそらく画面に染みわたる青い色調からくるのだと思う。しかし、この作品の青にあるのは、清らかな水のイメージはなく、タイトルの通り青暗い「冷たい水」の雰囲気があるだけだ。不穏な青に包まれた廃墟に煌々と燃え上がる赤い炎はまるで何かの葛藤を演じているかのようで、そこで踊り狂う青年たちのイメージは「死」をも予感させる脆さへと変わっていく。この映画に流れるジャニス・ジョップリンの自由への叫び(Freedom's just another word for nothin' left to lose And nothin' left is all he left for me)も何かの終わりを告げているようで青暗いイメージがつきまとう。クリスティーヌ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)が自分の髪を危なっかしく(あまり長くは切らない...)切るシーンはまさにその脆さを示しているのだが、彼女の髪の動きにはやはり「性」の萌芽のようなものが漂っていて、風に吹かれ揺れ動く髪を抑えるクリスティーヌの仕草までも若々しい生命の力を感じさせずにはおかない。
そのYOUTHとDEATHの葛藤を赤と青の光の混交のなかに配置させた撮影監督の名をドニ・ルノワールという。彼はアサイヤス作品の常連の撮影監督のひとりであり、ミア・ハンセン=ラヴの新作『EDEN』でもカメラを握っている。浮き沈みを繰り返す被写体の身体的な軽さを水平方向への滑走感の持続のなかにおく撮影方法はカサヴェテスなどに影響を受けた90年代の映画作家のあらゆる作品において試みられてきた手法である。だが、『冷たい水』の撮影が際立って美しいのは、遠景からクロースアップに至り、その距離が零に至るまでのショットを一寸のずれもなくフォーカスを定めながら被写体を待ち受けるその「客観性」にあるといえるだろう。手持ち撮影については様々な効果がその作品ごとに考慮されているように見えるが、アサイヤス作品ほどに「映画の眼」と言えるほどの流動性と客観性が徹底された撮影を他に見たことがない。『冷たい水』において、カメラの持つ視線は流れる水の荒々しさとそれに抗おうとする少年少女たちの危なっかしいYOUTHを見事に映し出している。
そして、新作『アクトレス〜女たちの舞台』においてその「映画の眼」は、「宇宙の誘動」の只中にあるかのような知覚を獲得していて、様々に変化するオリヴィエ・アサイヤス=YOUTHという式の最も美しい姿を確認することになった。
※『冷たい水』は、アンスティチュ・フランセ東京での特集「彼らの時代のすべての少年、少女たち」内の1本として上映された。