『チャイルド44 森に消えた子供たち』ダニエル・エスピノーサ高木佑介
[ cinema ]
数年前に『デンジャラス・ラン』という映画が公開されていたダニエル・エスピノーサの新作。デンマークの国立映画学校にキャリアの出自を持つというこの南米系スウェーデン人監督のことは詳しくは知らないが、彼の前作『デンジャラス・ラン』は、CIAの「裏切り者」のベテランと新米の師弟関係を軸に、法と無法、行動と待機のあいだを絶えず行き来する人物や物語がそうした主題を最も得意としていたかつてのアメリカ映画への尊敬と配慮と共に語られているようでとても面白かった。今作では、スターリン政権下のソヴィエトで国家保安機関に従事する男が連続猟奇殺人事件を追う、という話が展開されている。
まず、これは印象なのだけれども、この1950年代のソヴィエトが舞台の物語を見ていると、トム・ハーディら登場人物たちの台詞がすべてロシアン・アクセントの英語で発せられるという点に非常に違和感を感じる。もちろん、いくつかの製作国が絡んでいるとはいえ、この映画は多分にアメリカ映画的な主題が含まれたアメリカ映画として製作されているので、第一言語が英語であることは特に不自然でも不愉快でもないのだが、ある一本の作品としてこのフィルムを見ていると、皆が皆まるで呂律がまわらない言語障害を抱えているかのごとく、流暢に発話することを禁じられているかのように聞こえてしまう。「台詞」をロシアン・アクセントの英語で喋っているのではなく、英語で書かれた/発話された台詞が「過剰なロシアン・アクセント」によって混濁させられているとでもいうのか、「訛り」というより、ふたつの言語が同時に発話されている、あるいはふたつのルールに引き裂かれている、という印象を受けてしまう。
実際(といっても物語レベルの話だが)、国家の英雄であり党のエリートであるレオ(トム・ハーディ)は、台詞の発話がそうであるように、つねに複数の物語、複数のルールに引き裂かれながら同時にそれらを生きなければならない。まず、映画冒頭にも掲げられている理想国家たるソヴィエト=楽園には殺人はない、というテーゼに従い、彼は親友の息子の不審死を事故死として処理しなければならない。国家の内部に殺人鬼がいると主張することは、そのまま党への「反逆」となるからだ。レオは「殺人」の物語を、強固な制度に組するかたちでそれを「事故」の物語として一旦は受け入れる。そして、多くの裏切り者を検挙してきた優秀な捜査官である彼は、自身の妻にスパイ容疑がかけられたため自分の「仕事」をしなければならなくなるのだが、党に忠誠を誓い、妻にも忠誠を誓っているレオは、彼女が不意に「I'm pregnant」と言うのを聞いて、これまでのように「裏切り者」は「裏切り者」として同語反復的に検挙することに躊躇する。このあたりから、レオも、この映画も、次第にその倒錯的な輪郭を現しはじめていく。たしかに俺の親友には悪いことをした。奴の息子は殺されたのかもしれないし、そうではなかったのかもしれない。だが、俺は俺の「仕事」としてそれを処理しただけの話だ。俺には党を裏切ることはできない。しかし、忠誠を誓った妻も裏切ることはできない......。
結局、レオはこのアメリカ映画の主人公たるに相応しい振る舞いとして要請されていたであろう自身の内なる「良心」のようなものに従ったのか、妻を「裏切り者」として検挙することができず、結果、粛正は免れたものの党への忠誠心を疑われて田舎に左遷されることになる。こう言って良ければ、まるで大企業の中間管理職者の苦悩の物語のようにも見えてくるのだが、しかしそう簡単に一笑に付すことのできない切迫感が画面には張りつめてもいて、それが一層この映画の倒錯的な相貌をかたちづくっている。誰ひとりとして淀みのない英語/ロシア語を発話することができず、誰ひとりとして愚直に生を謳歌することができずにいるこの映画は、ある物語では「忠誠」であったものが別の物語では「裏切り」に、また別の物語では「裏切り」が「誠実」あるいは「良心」にもなるという、ある意味凡庸と言えば凡庸な物語の複数性・両義性を語っているというよりかは、むしろ異質な複数の物語を同時に語ること、その倒錯的にも思える試みを映画はひとつのフレームで見つめることができる、という方向に投げ出されている作品であるように思える。事実、この映画を見終わっても、いったい何がレオを事件の捜査に突き動かし、いったい何が「真相」だったのか、物語としてはさっぱりわからない。国家から反逆者として追われながら、わけのわからない動機に突き動かされて遂に犯人を追いつめた主人公たるレオは「お前こそ怪物だ!」と逆に犯人に言われもする始末である。さもそれが当然の出来事であるかのように連なっていく映像と映像の冷静さが、よりこの映画を不可思議なものに仕立て上げている気がしてきてしまう。
さまざまな物語に引き裂かれながらも結果的に事件を解決してしまったレオは、何をどうしたらそうなるのか、党の中枢に返り咲くことになるだろう。強固な制度に屈したとも、放蕩息子の帰還ともにわかには呼びがたいその瞬間、上司に向かって支離滅裂に聞こえる発言をしているレオの姿は、どこまでも奇妙かつ堂々たるイメージとして目に映る。