『ひこうせんより』広田智大渡辺進也
[ cinema ]
人里離れた廃墟のような場所で、男女7人が生活している。時代もまるで現代ではないような雰囲気で、無機質な衣装と無機質な物質の中で彼らは生活している。ある者は写真を撮り(フィルムが実際に装填されているのかわからない)、ある者は廃品だろうか機械を修理し、ある者は外部からの侵入者を警戒しているのだろうか金属バットを振り回し、ある者は紙に赤や青のペンキを塗り続け、ある者はひまわり型の風車をつくり、ある者は近くの川に流れて来た小ビンに入った手紙を読んでいる。彼らが何の目的でそのようなことをしているのかはわからない。彼らがいつの時代にどこにいるのかも私たちにはわからない。
『ひこうせんより』をみて、まず気が付くのは、同じシーンが何度も現れる、その繰り返しだろう。橋の上に佇む女の子を遠くからとらえたショット、ピアノの蓋が閉じられるバタンという音、「お久しぶりです」から始まる手紙の文面、そして夕方になるとスピーカーから流れる児童の帰宅を促す放送。一度みたシーンは、しばらく後にほとんど同じままに繰り返し現れることになる。つまり、『ひこうせんより』で私たちがみるのは、目的のわからないそれぞれの行為が何度も繰り返されていくことである。
同監督の前作『残光』もまた、田舎の学校のようなところで8月1日が繰り返される映画で、同じ一日を何度も生きる若者たちの映画だった。この映画をみたとき、一度みたシーンが何度も現れるものだから、まったく同じシーンをコピー&ペーストで繰り返しているのではないかとさえ思えた。その上映後に監督と話す機会があり、そのことを聞いたのだが、まったく同じようにみえるそれぞれのシーンは決して同じカットを使っているのではなく、すべて違うカットが用いられているということだった。また、編集の段階でそのような形式の映画になったのではなく、脚本の段階からそのようになっているとのことだった。
そのことを知った上で、『ひこうせんより』をみると、単なる繰り返しに思えたカットが少しずつ形を変えて現れていることに気づく。不明瞭に聞こえていた台詞がはっきりとした言葉として話し直され、あるシーンが前にみたときとは別の光によって姿を現す。ひとつの作品のなかで、ひとつのシーンは俳優によって何度も演じられることになり、ひとつのシーンは何度も撮影されることになる。同じように見えても、そこには同じ光り、同じ風、同じ音、同じ演技はひとつもない。単なる繰り返しではない。
何を覚えているかをふたりの男が話している場面だったろうか、次のような台詞があった。「これまでいろいろなことがあったんだよな......本当は何もなかったんだけど」。いろいろあるにも関わらず、同時に何もない彼らの生活。このことは記憶の問題についてというよりも、むしろこの映画そのものについて語っているように思える。何にもないけれど、いろいろある。いろいろあるけれど、何にもない。
彼らは同じことを繰り返しているだけだ。しかし、それにも関わらず、冒頭のスローモーションで橋を走るシーンをはじめ、どうして強く印象に残るのだろうか。それは繰り返し現れることばかりが理由ではないだろう。そのときそのときが現在であること(俳優たちの所作のあっけらかんとしたふてぶてしさ)、そのことをとらえ続けているからではないだろうか。だから、このように言うこともできるだろう。『ひこうせんより』は世界を映画というメディアによって捉えることの考察が刻まれているのだと。