『マッドマックス2』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー結城秀勇
[ cinema ]
早稲田松竹で二本立て。やっと見た。
『マッドマックス』も『マッドマックス/サンダードーム』もテレビでは見てるはずだがまったく記憶にないので、あくまで『2』と『怒りのデス・ロード』を比較しての印象だが、メル・ギブソンとトム・ハーディのマックスの違いは、とりあえず仲間になりそうな感じの人たちへの応対の違いにあるんじゃないだろうか。ギブソンは無関心を装った苛立ちみたいに見えるのに対して、ハーディは無関心を装った戸惑いのように見える。そしてさらにはその原因としてある過去の扱いと言うべきか。『2』では妻と子が死んだのは、まさにシネスコの「現在」に対してスタンダードサイズ・モノクロで描かれるべき「過去」で、そこからの反響は彼の現在に対する怒りとほぼ一体化している。一方、『怒りのデス・ロード』では死んだ子供は幻影として現在に登場し、マックスを誘導しさえするのに、彼は絶対にそれに触れることができない。
だから「fury road」(『怒りのデス・ロード』の原題)なのはむしろ『2』の方なのかもしれなくて、メル・ギブソンはとりあえず目的地を決めたらなんとしてもそこにたどり着き、クラッシュしない限り引き返したりしない(まあ、タンクローリーで超高速180°ターンして逆走、とかはしてるけど)。対してトム・ハーディにとって重要なのは、まさに来た道を辿り直すということだ。そもそも冒頭の脱走未遂シーンでも、クライマックスのカーチェイスでも、何度でも彼は振り子に揺られて来た場所に帰ってくる。だから『怒りのデス・ロード』を、劇中のシャーリーズ・セロンのセリフで形容するなら、「redemption road」贖罪の道なのではないか。
ブーメラン小僧を例に挙げるまでもなく、『2』においては女子供も敵も味方もみな等しく、人間は種として強い。だが『怒りのデス・ロード』においては、種としての衰退が如実に現れている。粉瘤腫のようなものだらけの戦闘員たち。老いの滲んだ肌を隠す腹筋のプロテクターをつけるリーダー。ほとんど国家規模の軍隊を相手にするのは、セロンとハーディを除いては妊婦と老婆。そして倒れたセロンを前に、パチパチ瞬きをしてオロオロするハーディ。
『怒りのデス・ロード』のすばらしさは、この年老いて弱々しい世界の中での贖罪のあり方だろう。それは弱々しい世界の中でもかつてのようにマッチョでタフであり続けることではないし、自らのせいで死んだ子供の代わりにその分未来を生きる人間を救うことでもない。一応物語上は(どういう理屈かまったくわからないが)出発点こそが約束の地だとわかるわけだが、そんなものがなくてもやはりハーディはオロオロと来た道を辿り直しただろう。計量可能な過去の罪の等価物を見つけるためではなくて、過去そのものに出会うために。つまるところセロンのキメのセリフ、「Remember me?」と出会うために。
その後に待ち受ける未来がなんなのかはわからないし、正直この弱々しい人々が元気になって生きていくとはとても思えない。でも「こいつすぐ死ぬな」っていうキャラで登場し、そのことを周りのセリフで揶揄され、肩にできたふたつの粉瘤腫しか友達のいない、そんなニコラス・ホルト演じるニュークスを見つめる赤毛の彼女が、完全にドリュー・バリモア的ポジションに見えてそれだけで泣けた。