『私の血に流れる血』マルコ・ベロッキオ田中竜輔
[ cinema ]
デヴィッド・フィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク』ではレディオヘッドの「Creep」のカヴァーが用いられていたベルギーの聖歌隊グループ、Scala and Kolacny Brothersによる本作の主題歌は、なんとメタリカの「Nothing else matters」。選曲がベロッキオ本人によるものなのかどうかはわからないが、ともあれ、「So close, no matter how far(どんなに離れていようとも近くにいる)」というこの曲の歌い出しには、きわめて率直にこのフィルムのありようが語られているように思える。中世魔女裁判の裏側に秘められたひと組の男女の禁じられた恋と、現代の夜を生きる老いた吸血鬼たちの共同体をめぐる葛藤というふたつの物語。それらがベロッキオの故郷ボッビオという小さな村の血脈足るトレッビア川を特権的なランドマークとして、老いた吸血鬼と裸体の聖女との数百年越しの切り返しにおいて結び付けられるとき、時間や空間が「どんなに離れていようとも近くにいる」人々の姿がそこには映し出されているからだ。だがベロッキオは、先のジェイムズ・ヘッドフィールドによるシンプルなラブソングの一節を、実はその真逆にも読み換えているような気がする。つまり、「どんなに離れていようとも近くにいる」ばかりでなく、「どんなに近くにあろうとも離れている」こともまた、『私の血に流れる血』には映し出されているのではないかということである。
現代で伯爵と呼ばれる吸血鬼はやたらとインターネットを嫌悪している。古風な人物なのかと思わせられるも、一方で彼は自身の吸血鬼としてのアイデンティティに直結するはずの犬歯を抜くことにまるで躊躇しない(むしろ歯科医の方が歯並びを心配する始末だ)。「ボッビオは世界のすべてだ」という彼の言葉を記憶しているが、きっとこの伯爵は『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』の吸血鬼たちとは相容れないだろう。伯爵はただ自身の生地であるこの小さな村に留まることだけを目的とし、その平穏を阻害するものはインターネットの情報網であれ、眠りを奪う虫歯であれ、あるいは奔放なかつての妻であれ自らの周囲から遠ざける。が、しかし決して目の届かぬ場所へはやらない。そのような伯爵のこの地に対する歪んだ執着は、かつて魔女狩りの標的となったひとりの女への中世の神父の執着に重なっても見える。教義に忠実に生きることを自らの信念としていた彼にとって、かつてサタンとの契約を疑われたベネデッタの「マグダラのマリア」に喩えられる驚くべき生存は、彼女が忌むべきものかそれとも崇拝の対象であるかという判別を彼から奪う。「禁域」と記された監獄はいつしか人智を超えた聖域へと置き換わり、ベネデッタは「どんなに近くにあろうとも離れている」存在として、彼の世界のすべてとなる。
そうした彼らの執着があっさりと破壊されてしまうのは、火あぶりのために漆喰で塗り固められた壁の崩壊とともに、文字通り輝かしいまでの肉体を曝け出し、ゆっくりと歩み出すベネデッタの姿を見ることによってだ。中世と現代、それぞれの空間に広がる青白い光は、サタンとの契約の嫌疑を晴らすため鎖を巻かれて川に突き落とされるベネデッタを捉えた水中ショットの色合いに似てはいないだろうか。それまで画面を支配していた古典的とも呼びうる深い陰影を基調とした色合いから離れ、ベネデッタが沈められた川底の様子は、どこか神秘的な劇伴の効果も相俟ってあたかもスポーツドリンクのCMのような軽さを獲得していた。ベネデッタの沈む水面と水中とを捉えたふたつのショット、その異なる質感があっさりと繋げられたあのシーンにこそ、このフィルムの「どんなに近くにあろうとも離れている」もの同士が共存することの驚きが集約されていたのではないか。
逆さ吊りにされ、髪を切られ、水に沈められ、涙を流し、そして火に焼かれながらも、かつての美貌を保ち続けたまま動き出すベネデッタは、あらゆる「近さ」や「遠さ」を自在に行き来し、周囲の世界の原理に従順なばかりの神父や吸血鬼を、そして私たちを魅惑する。たとえこの世のありのままの生を失おうとも、世界に異なる血を注ぎ込むように、自らの姿をありのままとは異なる形で晒し続けることの野蛮な勇敢さ。それをフィクションと呼ぶのなら、ベネデッタとはまさしくフィクションの化身であり、勇敢な映画の化身なのだ。