『私の血に流れる血』マルコ・ベロッキオ高木佑介
[ cinema ]
TIFFにてベロッキオの新作を見る。とても奇妙な映画だ。魔女の嫌疑をかけられた修道女に課せられる数々の試練――そしてそれを乗り越えて神への無償の愛を体現する聖女の物語という話で終わるのかと思いきや、全然違った。中世のキリスト教魔女裁判を巡る話が前半部分を占め、後半では突如として現代を舞台にした話が展開される。魔女裁判のくだりでは、敬虔そうな神父たちが修道女に試練を課して、サタンと契約したことを示す刻印や徴を見つけるために躍起になる。水に沈んだままであれば無実。何か超越的な力によって水から浮かび上がれば、サタンと契約したということで火あぶり、という具合に。彼女の身に顕現する何らかの徴(あるいは告白)を神父たちが感知しようとすればするほど、そのまなざしはどこか好奇めいたものになっていき、サタンと契約したというサインを見出すことができなかった神父たちは彼女を石の堅牢に幽閉することになるのだが、そこに至る前に、何やら言葉にするのが難しい妙なシーンがあった。それは魔女によって自殺に追い込まれたとされる神父の弟に、件の修道女=ベネデッタが告解をするという場面で、彼らの傍らで盲目の老修道女と若い修道女が事の成り行きを見守っている。いましがた憶えた告解の文句を諳んじる男。その耳元に、「おあいにく様だったわね」というような一言をベネデッタがそっとささやく。すると突如、男をふたりの修道女から見えないのだか見えるのだかの位置に連れていき、自分が捕われている禁域の鍵を地面から掘り出してベネデッタは男に手渡すのだが、その一連の流れが流麗すぎるのか、あるいは何かがすっぽりと抜け落ちているのか、視線がうろたえている内に何が起こったのかよくわからないまま「事」は済んでしまう。「何が起こったの?」と盲目の老修道女はすぐ近くでたしかにそれを見ていたはずの若い修道女に尋ねる。しかし、その若い修道女も目の前で何が起こっていたのかよくわかっていない。その「ずれ」「遅れ」の印象が、一連の画面をたしかに見ていたはずのこちらをさらに混乱させるかのようだ。切り取られるショットとショットの関係から、そこはかとなく人物たちの位置関係・空間を把握していたはずの視線が、画面のなかで起こっている何かに遅れはじめる。ベネデッタがまさに涙を流す瞬間をカメラも我々の眼差しも捉えることがないように、出来事と時間の関係がずれていく。男が河に投げ捨てる禁域の鍵は、時間が混濁しているのか、それともそれは「すでに起こった」ことでこちらが何かを見落としているのか、なぜか2本ある。冒頭でも示された修道院の重い扉が再度開かれ、その薄暗い空間に光が差し込む。気がつくと、時代は数百年の時を超えている。
その後は、ひとつ前のジャーナルで田中竜輔が書いている通り、俗世から離れて暮らすヴァンパイアたちの話が展開する。先ほどまで厳めしい表情を浮かべていた神父たちは役柄をずらされ狂気じみた隠遁者として提示されていく。ヴァンパイアの長は、昔の妻に見られても存在しないことになっていて、写真に撮られてもその姿は写らない。現代に生きるヴァンパイアは、時空を超えて堅牢から解き放たれるベネデッタの姿を見る。暗がりのなかから浮かび上がっていく彼女の姿は、どこか聖骸布を思わせるぼやけたイメージとしてスクリーンの上に顕れる。聖骸布の比喩とともに写真映像の存在論をバザンは展開していたが、ここにはたしかに映画の奇蹟的瞬間が徴のように露呈している。