『岸辺の旅』黒沢清梅本健司
[ cinema ]
僕らと映画とその間
瑞希が言うように、瑞希と優介には違いなんてないのではないか。死んだように生きていている瑞希が、突如思いつき白玉を作っていると、生きているかのように死んでいる優介が帰ってくる。「たぶん、身体はカニにでも食べられてるだろーねぇ」と言いながら白玉を食らう優介と、「そう」と平然と答える瑞希は、3年ぶりに再会した夫婦であるのだが、それが生死を超えた再会には見えない。もしかしたら二人とも死んでいるのかもしれないし、『リアル〜完全なる首長竜の日〜』みたいに瑞希が幽霊で、優介が生きているという具合に、突然、立場がまったく逆転するかもしれない、そんな風にさえ思える。しかし、彼らの間には「岸辺」が存在している。そしてその「岸辺」は僕らと映画の「間」に似ている気がするのだ。
「きれいな場所があるんだ。いっしょに来ないか?」と優介が瑞希を誘い、二人は旅にでる。しかし、彼らが訪れる場所はとりわけ絶景といえるような風光明媚な場所ではない。都心から少しはずれたところにあるような町の新聞屋。景色を見ただけではどこだかわからない、特徴のない町で夫婦が営む中華料理屋。山と田んぼしかないおそらく日本各地にあるだろう小さな村の農家。何気なく通り過ぎ、見逃してしまうほど、あまりにも当たり前に存在している場所ばかりだ。それを優介は「きれいな場所」と呼び、瑞希と共に再び訪れていく。「こんな優介はじめて見たなー。」と瑞希は言う。瑞希がいう「こんな優介」も実は生きている間も、当たり前のように存在していたかもしれない。当然のようにあったもの、それを優介は瑞希に見せていく。空を見上げれば、月もこんなにも鮮やかだと。優介という光によって瑞希の目に、今まで見ることができなかったものが映し出されるのだ。目を閉じ、次に開ければ優介は消えているかもしれない。優介は、それほど儚く、消えゆく存在であるが、彼が瑞希の目に映した世界が確固として存在し始める。「岸辺」は彼らの到着点ではない。「岸辺」は優介が放つ光が往来する場所なのだ。
ふたりの旅は、映画を見る僕らの旅のようではないだろうか。毎日踏んでいる地面や、通り過ぎる人々や風景、そんな当たり前にまわりに存在していながらも見えていないものたちが映し出される。それは、ただの映像と音なのだけれど、『岸辺の旅』の中に映るそれらを見ると、まるでそれらが魔法をかけられたみたいに僕らの心を動かすのだ。まさにそうしたものたちに出会う時間を「岸辺の旅」と呼ぶのではないだろうか。「この若い宇宙に生まれることができて本当に幸せです。」瑞希をまっすぐ見つめながら優介はそう言う。優介が静かな声で述べる広大な響きを持つ言葉を聞くと、宇宙に比べれば映画の歴史など、ましてや、僕の存在なんか、光の点のようなものでしかないと思う。しかし優介は光の点のような無こそ、この世界の本当の姿だとも言っていた。その無から、僕たちの住むこの世界が存在していること。『岸辺の旅』を見て、そのことを心より幸せだと思った。優介は消えてしまう。しかし優介が映してくれた世界を瑞希が歩き続けていくように、僕らは、映画との始まったばかりの旅路をまだまだ歩き続けるのである。
『岸辺の旅』
テアトル新宿ほか全国ロードショー中
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