『約束の土地』アンジェイ・ワイダ隈元博樹
[ cinema ]
引き攣った顔の連続が、スクリーン越しに押し寄せてくる。カメラのクロースアップがそれを助長するかのように、時代の潮流に揉まれた人々の表情が、およそ40年の時を経てもなお刻まれている。舞台となる19世紀末のウッチは、世界でも有数な繊維工業地帯として栄華をきわめ、さらにはドイツ、ユダヤ、ポーランドによる民族と文化の入り混じる只中にあった時代だ。だからこのフィルムが描くウッチには、民族の多様性があり、貧しさがあり、彼らを搾取するブルジョアジーによる富と悪がはびこっている。なかでもこうした産業資本家と労働者との階級構造は、行列の質屋に並んでは「10ルーブルでもいいから貸してくれ」としきりに懇願する主婦、あるいは閉塞した空間の中で闇雲に働く労働者たちの状況とまなざしによって窺い知ることができるだろう。
しかし『約束の土地』において興味深いのは、過酷な日々を強いられた彼らの表情にあるのではない。むしろ野心や私利私欲にまみれたブルジョアたちの表情にこそ、ただならぬ不安と焦りが炙り出されていることにある。物語は士族の末裔であるカルロ(ダニエル・オルブリフスキ)を筆頭に、自分たちの繊維工場を建設すべく旧世代からの脱却に腐心するモリツ(ヴォイツェフ・プショニャック)、マックス(アンジェイ・セヴェリン)といった若き青年たちの青春群像劇をベースに展開される。一見このように捉えると、『約束の土地』は才気と革新に満ちたフィルムだと思う。しかしその一方でカルロたちが見せる表情の隙間には、絶えず不安が募っているのだ。まったく笑みを見せないわけではないが、次の瞬間には別人のようにして表情を変えてしまう。高利貸しによる事業が軌道に乗ったとしても、関税の引き上げによって資金の調達に成功したとしても、さらには自分たちの工場を手に入れたとしても、カルロたちが不安の底から救い出されることはない。のちに起こる社会主義運動や両大戦間を経て語り継がれるウッチの悲劇については、この国の史実に詳しい。しかしそのこととは別に、あたかも自分たちの末路を予見しているかのように、彼らの表情が緩み続けることはないのだ。
こうした不安の影は民衆の側にあるだけではなく、『約束の土地』にはその目的へと近づくために悪へと手を染めた権力にある。そんな若き野心家たちの懐を絶えず横切る紙幣とは、彼らを取り巻く諸悪の根源にほかならない。かさばった紙切れが目の前で横断されていくさまに笑みをこぼしつつ、やがて彼らは絶望の淵へと突き落とされていく。前回の「ポーランド映画祭2014」で観た『借金』(1999、クシシュトフ・クラウゼ)もそうだったが、野心の裏には数多の矛盾が仕組まれている。だからこそこのことは、映画の中の単なる絵空事にとどまらない。それは労働者のストライキに制裁を下したカルロのラストシーンが、昨今の世界情勢を伝えるテレビの映像とシンクロしたとき、決して他人事のようには思えてならなかったからだ。