『ブリッジ・オブ・スパイ』スティーヴン・スピルバーグ結城秀勇
[ cinema ]
この映画の最初のカットは、後にソ連のスパイとして逮捕されることになるルドルフ・アベルの顔を映し出す。カメラはそのままズームアウトして、その顔が鏡の前に座った男の鏡像であったことを明らかにし、そして彼が鏡を見ながら描きつつある自画像が画面右手に置かれていることをも示す。この、こちらに背を向けたひとりの男と、男についての二枚のイメージーー左側は鏡像、右側は自画像ーーを見ていてなんだか変な感じになる。それは、左の鏡像と右の自画像が互いに向き合うかのように置かれているからだ。この男はせっかく鏡見ながら自画像描いてるのに、なんで見たままを描こうとしないんだ?なんでわざわざ鏡で見た映像を180度反転させて、"鏡像の鏡像"であるかのような自画像を描いてんだ?と。それはもしかすると私が知らないだけで自画像制作において確立されたひとつの手法なのかもしれなくて、いたってごく普通のことかもしれないのだが、ひとりの男から取り出されたふたつのイメージが、正反対の方向を向いた別のものであることだけが、ここでは重要だ。反転した鏡像をさらに反転することによって自画像は現実により近づくのか、あるいは反転操作が少ないぶんだけ鏡像は自画像より現実に近づくのか、どちらがより本物に似ているか、そしてこのふたつのイメージは互いに似ているのか、そうした問いは中心に背後を見せる男を置いたこのショットの問題体系の外にあって、ただ同じものから取り出されたふたつのイメージが違うということだけが意味を持つ。
一言で言えば、スピルバーグが『ブリッジ・オブ・スパイ』でやっているのは、「並べられたふたつのイメージは違う」ということを証明することだけだ。まるで『アワーミュージック』の中で、ゴダールが『ヒズ・ガール・フライデー』のケイリー・グラントとロザリンド・ラッセルのスチールを並べて、「ここでは同一のものが反復されている」と言っていたことへの回答のように、左の鏡像と右の自画像ーーひとつの現実から取り出されたふたつの表象ーーは単にひとつのものの異なる側面というだけではなく、まったく別のものですよ、とひたすら言い続けるのがこの映画だ。
トム・ハンクス演じるジム・ドノヴァンが、ソ連のスパイであるアベルを弁護し、その結果ソ連の捕虜となったパワーズ中尉及び見当違いの嫌疑で東ドイツに拘束された一般人プライアーを、アベルの解放を交換条件として引き渡させるための交渉役を引き受けることになる、というあらすじからは、むしろ左と右を等価交換可能なものとする作品のように思えるかもしれない。そうなるとタイトルにあるブリッジとは「=」のように右側と左側とのフェアトレードを意味する記号であるかのようだが、実態はまるで違う。なぜふたりのアメリカ人とひとりのロシア人の交換が等価であるかなどという説明は一切なされない。むしろCIAはスパイ同士の一対一の交換で満足しとけとドノヴァンを諭すのだが、ドノヴァンはプライアー込みの交換でなければダメだと頑ななままだ。
このドノヴァンの手口を資本主義的なトリック、情報速度の落差を利用して利益を得る「高頻度取引」のようなトリックとして見ることも可能なのかもしれない。事実、ドノヴァンはその登場シーンで「5人死のうがひとり死のうが交通事故は一件だから、一件分しか保険料は払わない」というロジックによって、クレームをつけてきた相手を丸め込む。だが本作がこうしたドノヴァンの資本主義的手腕ーー本来はイコールではないものをイコールで無理やりつなぐことで利益を搾取するやり方ーーを讃える映画であるならば、実在するドノヴァンさんの業績として取り上げるべきなのは、こんなどうでもいい一般人ひとりを騙し取る取引ではなく、むしろこの作品の最後に字幕で語られるに過ぎない、キューバとのピッグス湾の捕虜交渉によって何千人だかの命を救った的なエピソードのほうだったろう。少なくとも『ブリッジ・オブ・スパイ』中盤以降のドノヴァン=トム・ハンクスは、ふたりのアメリカ人とひとりのドイツ人という、決してイコールでは結ぶことのできないふたつのものを右と左とに置くことにのみこだわり続けているように見える。
だからむしろこの映画の本質に沿ったドノヴァンの発言として参照すべきなのは「5人でも一件」セオリーではなく、スパイ弁護中の彼に近づくCIA職員に向かって言い放つ「お前はドイツ系だが、おれはアイルランド系だ。我々が同じアメリカ国民なのは合衆国憲法というひとつの規則があるからだ」というセリフのほうだろう。お前とおれは違う、左と右は違う、西と東は違う。それでもその違うものたちを、違うものたちのままにつなぐブリッジ、それが合衆国憲法という「規則」なのだとドノヴァンは語る。
この「規則」が劇中では理念としてどのように描写されているのかといえば、アベルが面会に来たドノヴァンに向かって言う2単語の言葉に集約するだろう。すなわち「Standing man」。幼い日に故郷で見たひとりの男にドノヴァンが似ていると、アベルは語る。その男は際立ったことはなにもしなかった(字幕ではそんな表現だった気がするが、彼がextraordinaryという形容で物事を修飾していたのかoutstandingという形容で人物を修飾していたのかよく覚えていない)。だが、ある日パルチザンが家にやってきて、その男を殴りつけはじめたとき、彼は何度殴られてもその度に立ち上がり続けた。そんな彼を見てパルチザンたちは思わず「不屈の男=スタンディングマン」だ、と呟いた。そんな男にドノヴァンは似ている気がする、と。
このスタンディングという理念の本質的な難しさを示すエピソードが他にもある。人質交換の交渉人として東ベルリンに向かうことになるドノヴァンだが、国際関係の都合上、彼は政府の代表としてではなくあくまで民間人として任務を行うことになる。そんな彼にCIAは通告する。「君には公的な身分はない」(君はno offical standingだ)と。『ブリッジ・オブ・スパイ』の中でトム・ハンクスに課せられた仕事とはすなわち、国家権力を超えたヒーローとしてアウトスタンディングに振舞うことでもなく、オフィシャルスタンディングを得た代表として国家間を行き来することでもなく、単なる一般人としてただスタンディングし続けろということだ。両手に違う重さの異なるものを抱えたままで。言うまでもないが、憲法=constitutionの語源は「共に立つ」だ。
では理念としてのただ立つことという「規則」は、具体的にどのような手法で描写されるか。それは、前述した『アワーミュージック』の中でゴダールが批判する「フェイス・トゥ・フェイス」式切り返しによってではない(そういう意味で、ベルリンの壁を越えようとして射殺される人々と、ブルックリンの裏庭の金網をやすやすと越える子供たち、というふたつの映像の距離を置いた反復は失敗しているし、不要だ。むしろ同一性がそこでは際立つ)。この映画が、異なるふたつのものを抱えたまま立ちつくすことを直截に描くのはあくまでひとつのショット、前述した冒頭の自画像シーンであり、そしてグリーニッケ橋で人質交換が成立する瞬間のショットである。仰角気味の深い縦の構図の中で、パワーズ中尉は画面手前へと歩いてきて、アベルは画面の奥へと歩いていく。そして手前左側でパワーズが同僚と抱き合う一方で、アベルは迎える者たちと抱き合うこともなくただ小さくなっていく。ストーリー上のコンテクストとしては、アベルの帰国後の運命は「迎えの者に抱きしめられるか、ただ後部座席に座らされるか」によって決まるという伏線があり、それを決定的に説明するのはカットが変わった次のやり取りだが、実際にはそんなものは必要なく、ただ橋の上を映し出したこのひとつのショットの内にすでに、橋のこちら側と向こう側との圧倒的な不均衡、一方に祝福を一方に冷遇を与えるという決定的に不等価な取引のすべてが映し出されている。そしてその不均衡の重さを知るのはドノヴァンだけであり、帰国後テレビのニュースで子供たちが父親がなにをしていたのかを知り尊敬のまなざしを彼に投げかけようとしても、その報道はアベルとパワーズの等価交換として宣伝されるばかりで、ドノヴァンが一番こだわった不均衡=プライアーの存在はまったく無視されるだろう。ドノヴァンただひとりが右と左、東と西、橋の向こうとこちらの絶対的な不均衡の間にただ立ちつくしたのであって、仕事をすべて終えた彼はベッドに倒れこむ。
『ブリッジ・オブ・スパイ』が、前述したようにピッグス湾の捕虜解放交渉ではなくグリーニッケ橋の捕虜交換を描いたのは、異なるものの間にあってその異なるものを異なるもののままつなぐ「規則」としてのブリッジを、ドノヴァンという人物に体現させるためである。彼はそれを「アメリカ合衆国」の「規則」なのだと言うが、同時に「シネマ」の「規則」であることは言うまでもない。