『蜃気楼の舟』竹馬靖具隈元博樹
[ cinema ]
オープニングショットに捉えられた一艘の小舟が、ゆったりと画面の奥へ向かっていく。それは別に何かを運搬しているわけではなく、ただゆらゆらとスクリーンの前の私たちから離れていくだけだ。しかし佐々木靖之のカメラは、そんな無機質な舟の行方を丹念に追いつづける。どこへ向かうのかさえも問うことなく、誠実なまでにその舟の行き着く先を収めようとする。
このように『蜃気楼の舟』の被写体たちは、絶えずどこかへ向かおうとしている。まるでアメリカン・ヴィスタのフレームから逃げ去るようにして、つねに奥へ奥へと離れていこうとするのだ。おそらくここに登場する都内のホームレスたちも、オープニングを漂う小舟のような存在なのだろう。彼らは生活保護費を目的とした囲い屋のハイエースによって、どこともしれない地方の山中へと誘われていく。しかし生活上の安全と保障を目的とした彼らに用意されるのは、粗末なベニヤ造りの住居に薄手の布団と毛布、それから定時に配り投げされる弁当のみ。声をあらげる者もいれば、住居の外へ飛び出すことで囲い屋に暴力を受ける者もいる。そこで死を迎えた者は秘密裏に葬り去られ、なかには目的もなく決まった時間に山中へと繰り出す者さえ出てくる。それは冒頭を漂う小舟と同じく、目的を失った行先不明の放浪者にも見えてくるだろう。
しかしここで思うのは、囲い屋とホームレスとの階層秩序が生み出す資本主義社会の悲劇に共鳴することではない。むしろ何かの既得権益や経済上の目的があってどこかへ向かうのではなく、ただ向かうという身体の行為そのものだけに注視せざるをえない。ものごとの真相を探るための動機があったとしても、やがて私たちには身体の動向を見つめることしか許されなくなるのだ。囲い屋で働く男(小水たいが)は、そうした目的を削ぎ落とされることで、「ただ向かう」という行為そのものが浮き彫りとなっていく人物のひとりだ。都内から連れ出した浮浪者たちの中に行方不明の父(田中泯)を見つけた彼は、「なぜ私を捨てたのか」という目的を持ったまま父の行方をひたすら追っていく。しかし当てもなく彷徨する父は「またか」「ここじゃない」と的外れな言葉をつぶやくだけで、自分と母親を捨てた理由を詳らかにすることはない。そしてふたたび父はどこかへと向かい、息子は絶えずそれを追いかける。しかし父を追う息子といった具体性を帯びた関係性は、目的もなくどこかへ向かう者と追う者といった二者間の抽象的な関係性へとしだいに還元されていく。つまり目的もなくどこかへと向かう二つの身体のみが、この映画の画面上に取り残されていくことになるのだ。
どこかへ向かおうとするが、そこには何もない。このことは竹馬靖具の前作『今、僕は』で竹馬本人がラストに向かう橋の向こう側がそうであったし、共同脚本を務めた真利子哲也の『NINIFUNI』における国道線の風景にも通底している。しかし『蜃気楼の舟』には、そこに混沌とした時制が加わることになる。カラーとモノクロの入り交じる夢現な世界を漂うことは、彼らの生きる現在地を曖昧なものにし、やがてその時制を問うことさえ無益なものとなっていくだろう。目的を果たせぬまま、ただ行き場を失っていく者たちの状況に対峙すること。ただし彼らはその時制さえも越えて、絶えずどこかへ向かうという行為によって自らの生をつなぎ止めている。だから私たちは、彼らを捉えるカメラのように、どこかへと向かう洗練された身体を受け入れざるをえない。彼らは今を生きる私たちの状況でもあり、より今日的な現代性を帯びた私たちのありさまなのかもしれないからだ。