『母よ、』ナンニ・モレッティ増田景子
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cinema
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ナンニ・モレッティの新作『母よ、』を見て、アンナ・マニャーニのお尻を思い出した。『ベリッシマ』(1951、ルキノ・ヴィスコンティ)で子どものために階段を上り下り、あちこちを駆けずり回る姿のなかに光る、あのお尻である。ペドロ・アルモドバルが『ボルベール』の撮影の際に、つけ尻なるものをペネロペ・クルスにつけさせたのも、このお尻のせいだ。彼はこのアンナ・マニャーニのお尻に「母親」たるものを見出したからだと、インタヴューで明かしている。ハイヒールにひざ丈のスカートを着て、急ぎ足で歩くペネロペ・クルスのお尻もまた、彼女の歩調に同調するかたちで、よく揺れていた。
残念ながら『母よ、』の主人公マルゲリータを演じるマルゲリータ・ブイのそれは、洋ナシ型シルエットをつくるほどの豊かさはなく、むしろ現代人的なうすく目立たないもので、ジーンズにTシャツやダッフルコートといったスタイリッシュな服装とよく似合う。それでも、やはり『母よ、』を前に挙げた「大きなお尻を揺らして歩く母親」映画の系統(があればの話だが、)のなかに入れたい。それは、母親のせわしなさ故である。
映画監督であるマルゲリータは、撮影現場で座ることなく、常に立っている。そして何かがあればすかさず駆けよって対処する。この彼女のフットワークの軽さは、現場の外でも健在で、仕事の合間には、母として休暇から帰る娘を駅まで迎えにいき、娘として入院している母親の病室に毎日顔をだす。当然、彼女はそんな目まぐるしい毎日ですっかり疲れ切っているが、だからといって立ち止まることはしない。そして多分できない。
これと対照的なのが、彼女の弟ジョヴァンニ(ナンニ・モレッティ)である。彼は、死期の近づいている母親の看病を理由に、「働く気分じゃない」と長期休暇をとっている。仕事帰りに顔を見せる程度しかできないマルゲリータに反し、足繁く病院にかよい、日に日に弱っていく母親の世話をする。この最期まで母を見届けようと、静かにたたずむジョヴァンニが、マルゲリータのフットワークを一層引き立てる。
彼女のこのフットワークの軽さ、「せわしなさ」はいったいどこからくるのだろうか。それはこの映画のもうひとりの母である病気の母親アーダ(ジュリア・ラザリーニ)からであろう。入院してからというものの、外出もできず、また病状が悪化して数メートル歩くのもままならなくなってしまう年老いた母。それでも孫のラテン語の進度を気にかけたり、話の長い見舞客にうまく相槌を打ったりして、かつての「せわしなさ」をうかがわせる。
最後、私たちはふたりの大きな子どもとともに、この年老いた母親のイタリアで典型的な「あの大きなお尻」を再発見することになる。きっと実の子どもが巣立った後も、彼女はこのお尻を揺らし続けていたのだろう。映画で語られなかった、ともに過ごすことのなかった時期の彼女の歩き回る姿についつい思いをはせずにはいられない。ナンニ・モレッティの描くこの脈々と受け継がれている「大きなお尻の母親」の物語は、いわずもがな私の2015年映画トップ10の1位を占めている。
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ナンニ・モレッティの新作『母よ、』を見て、アンナ・マニャーニのお尻を思い出した。『ベリッシマ』(1951、ルキノ・ヴィスコンティ)で子どものために階段を上り下り、あちこちを駆けずり回る姿のなかに光る、あのお尻である。ペドロ・アルモドバルが『ボルベール』の撮影の際に、つけ尻なるものをペネロペ・クルスにつけさせたのも、このお尻のせいだ。彼はこのアンナ・マニャーニのお尻に「母親」たるものを見出したからだと、インタヴューで明かしている。ハイヒールにひざ丈のスカートを着て、急ぎ足で歩くペネロペ・クルスのお尻もまた、彼女の歩調に同調するかたちで、よく揺れていた。
残念ながら『母よ、』の主人公マルゲリータを演じるマルゲリータ・ブイのそれは、洋ナシ型シルエットをつくるほどの豊かさはなく、むしろ現代人的なうすく目立たないもので、ジーンズにTシャツやダッフルコートといったスタイリッシュな服装とよく似合う。それでも、やはり『母よ、』を前に挙げた「大きなお尻を揺らして歩く母親」映画の系統(があればの話だが、)のなかに入れたい。それは、母親のせわしなさ故である。
映画監督であるマルゲリータは、撮影現場で座ることなく、常に立っている。そして何かがあればすかさず駆けよって対処する。この彼女のフットワークの軽さは、現場の外でも健在で、仕事の合間には、母として休暇から帰る娘を駅まで迎えにいき、娘として入院している母親の病室に毎日顔をだす。当然、彼女はそんな目まぐるしい毎日ですっかり疲れ切っているが、だからといって立ち止まることはしない。そして多分できない。
これと対照的なのが、彼女の弟ジョヴァンニ(ナンニ・モレッティ)である。彼は、死期の近づいている母親の看病を理由に、「働く気分じゃない」と長期休暇をとっている。仕事帰りに顔を見せる程度しかできないマルゲリータに反し、足繁く病院にかよい、日に日に弱っていく母親の世話をする。この最期まで母を見届けようと、静かにたたずむジョヴァンニが、マルゲリータのフットワークを一層引き立てる。
彼女のこのフットワークの軽さ、「せわしなさ」はいったいどこからくるのだろうか。それはこの映画のもうひとりの母である病気の母親アーダ(ジュリア・ラザリーニ)からであろう。入院してからというものの、外出もできず、また病状が悪化して数メートル歩くのもままならなくなってしまう年老いた母。それでも孫のラテン語の進度を気にかけたり、話の長い見舞客にうまく相槌を打ったりして、かつての「せわしなさ」をうかがわせる。
最後、私たちはふたりの大きな子どもとともに、この年老いた母親のイタリアで典型的な「あの大きなお尻」を再発見することになる。きっと実の子どもが巣立った後も、彼女はこのお尻を揺らし続けていたのだろう。映画で語られなかった、ともに過ごすことのなかった時期の彼女の歩き回る姿についつい思いをはせずにはいられない。ナンニ・モレッティの描くこの脈々と受け継がれている「大きなお尻の母親」の物語は、いわずもがな私の2015年映画トップ10の1位を占めている。