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February 7, 2016

『東から』シャンタル・アケルマン
結城秀勇

[ cinema ]

35mmフィルムで投射された映像がなんだかやけにぼんやりとして見える。粗い粒子のひとつひとつにはピントが合っているのに、それらが構成する映像全体のどこに焦点があるべきなのかがわからない。画面中央に置かれた樹木がその背景よりも鮮明であったりすることもなければ、画面の奥から近づいてくる農婦たちの誰かひとりが他の誰かよりも鮮明であることもなく、駅の待合室の、横移動するカメラの前に現れては消える人々もまた、同じように曖昧な柔らかい光(そして柔らかい影)の中で通り過ぎていく。少なくとも私にとって、製作から20年以上を経たこの作品を、いま2016年にフィルムで見ることの意義とそれらどこかぼんやりとした映像たちは分かち難く結びついている。私たちの目はあまりにも、より鮮明でより明るくよりくっきりとした映像に慣れすぎている。それがソ連崩壊後に「東から」やってきた映像たちと、いまの私たちとの距離である。
名も知らぬ街の、名も知らぬ道を行き、名も知らぬ曲を耳にして、意味もわからない言葉の喧騒に身を浸す。その名が呼ばれることはなく、その意味が翻訳されることもない。ジャン=リュック・ゴダール『たのしい知識』の中でジャン=ピエール・レオーは、「いつか僕らは、人に言われたことの映像になる」という危険について語るが、『東から』の「東から」来た映像たちを、アケルマンはそうした危機から救い出し、それらが「人に言われたことの映像」になりなにか別のことを語らされるのをやめさせ、映像自体が語ることを語らせようとする。その行為の倫理的な正当性は20年余りを経た現在でも微塵も揺るがない。
しかし途方もない傑作である『東から』を見ている間ずっと考えるのは、同じ倫理に忠実であるために現在私たちが取るべき手法は、アケルマンがこの作品で取ったものとは同じではありえないだろう、ということだ。私たちはもはや、技術的にも、知覚的にも、政治的にも、彼女が「東から」来た映像に向けた柔らかい眼差しを持ち得ない。単なる感傷ではなく現実的な問題提起として。
映像は本質的に明確なものだ。正しく扱うならば、それは自らが語るべきことを語る。そのことを教えてくれるのが、均一化された色温度のハイレゾリューションハイコントラストのパッキリした映像ではなくて、どこかもやっと滲んだような柔らかい光と影であるとき、本当に私たちは自分たちが持ち得た技術の真価をまったく把握できていないと感じる。こんなにも「東から」やってくる映像こそが必要な時代なのに。

第19回 カイエ・デュ・シネマ週間「シャンタル・アケルマン追悼特集」にて上映