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February 16, 2016

『ザ・ウォーク』ロバート・ゼメキス
田中竜輔

[ cinema ]

ジョゼフ・ゴードン=レヴィット演じるフィリップ・プティを語り部として、プティによって行われた地上400mを超えるツインタワー間の綱渡りという常軌を逸した実話を題材につくられた本作。遅ればせながらIMAX3Dでこの作品を見て、本当に様々な場面で魂のすくむ思いをさせられた。しかし一方で私がこのフィルムを見ながら終始不思議で仕方なかったのは、どうしてレヴィット=プティが「英語を話す」ということにここまでこだわるのかという点だった。
もちろん『ザ・ウォーク』はユダヤ系アメリカ人俳優であるレヴィットが主演のアメリカ映画(しかも大作)なのだから、全編にわたってあらゆる国籍の人物が何の説明もなく英語を話していてもおかしくない。一方で実在のフィリップ・プティは生粋のフランス人なのだから、シナリオのところどころにフランス語の流暢な会話が挟み込まれていても驚く必要はない。あるいはレヴィットがプティの役作りのためにフランス語の練習をし、さらにあえてフランス語訛りの英語を練習したという逸話もまったくもって理にかなっている。
しかし私が不思議でならなかったのはそういった点ではなく、なぜレヴィット=プティが自らの挑戦に対するフランス人の共犯者たちを紹介されるたびに「英語を喋れるか?」と尋ね、なぜレヴィット=プティがごく仲間内の集まりの中でさえ何気なくフランス語を喋るたびに「英語で話せ」と命令する必要があったのかということである。言い換えれば、そのような質問や命令をめぐるシーンがなぜ『ザ・ウォーク』においてこれほどまでに取り入れられる必要があったのか。この演出の執拗さは、端的に作品に対する注釈の域を超えている。ニューヨークを訪れたチームがその目的を遂行するためには、「現地の人間」になりきって怪しまれないようにする必要があると述べたレヴィット=プティの言い分はわからなくもない。が、思い出してみれば彼は初めてアメリカの地に降り立ったとき、入国審査官に向かって堂々と「ツインタワーで綱渡りをしにきた」と述べていたのだ。これは、たとえばニューヨークの街中でたまたますれ違った赤の他人にフランス語での会話を聞かれることとは、別次元の問題行動である。それを考えれば先の「現地の人間になりきる」というプティの言い分など、ほとんど建前に過ぎないものだろう。そして無論その建前はプティのものでもレヴィットのものでもなく、このフィルム自体が、そしてロバート・ゼメキスが必要とした建前であるはずだ。
『ザ・ウォーク』の物語とは、アメリカ人ならざる者(プティ)がかつてアメリカの象徴である何か(ツインタワー)に神話を受肉させたことをめぐる物語、つまりは一種の建国神話のようなものである(レヴィットの足に刻まれた「聖痕」はあからさま過ぎる)。だが、おそらくこのフィルムにおけるゼメキスの関心とはその神話をつつがなく語り終えることではない。その主人公たるアメリカ人ならざる者をほかならぬアメリカ人に演じさせることで、どうしようもなく生じる歪さを深く広げようとすることにこそ、おそらくゼメキスの企図はある。先に記したこのフィルムの「英語を話す」ことをめぐる過剰な演出には、そのような歪さを隠すどころか徹底して広げようとする意志を感じてやまない。
もちろんこのフィルムにおいて、ツインタワーが2001年に崩壊したという事実が決して正面からは語られなかったことにも、その意志は繋がっているのだろう。このフィルムでレヴィットがワイヤーをかけたこのツインタワーは、かつてプティが渡りきったあのツインタワーではない。かつてアメリカ人ではない者によって為された建国の儀式を、もう一度今度はアメリカ人によってやり直すという試みが、楽天的な希望を生み出してくれるなどと『フライト』の作家は無邪気に信じてはいまい。むしろゼメキスはそのような儀式の再現という試みにどうしようもなく附随する倒錯、それ自体をこそこのフィルムに、そしてジョゼフ・ゴードン=レヴィットとフィリップ・プティの間に刻み付けているように思えた。

『ザ・ウォーク』オフィシャルサイト

  • 『ベオウルフ/呪われし勇者』ロバート・ゼメキス 松井宏