『大河の抱擁』チロ・ゲーラ久保宏樹
[ cinema ]
近年、映画産業の発展の著しいコロンビアの若手映画映画監督チロ・ゲーラ(Ciro Guerra)による長編3作目、『大河の抱擁』(原題は「El Abrazo de la Serpiente / 蛇の抱擁」、ちなみに本作は日本でも第7回京都ヒストリカ国際映画祭にて上映されている)が、第68回カンヌ国際映画祭監督週間グランプリ受賞から7ヶ月の遅れを経て、パリでは昨年の12月23日よりMK2系列の映画館で公開されている。つまらない映画はすぐに入れ替えられてしまうことも珍しくないパリの映画館で、目の肥えた観客を相手に一ヶ月以上も座席を埋め続けるこの作品の力強さは、幾回でも見るに値するだろう。チロ・ゲーラはまだ日本の観客にはほとんど馴染みのない名前だが、仏映画批評家の大御所ジャン・ドゥーシェが「チロ・ゲーラの新作ならば面白いはずだ」と作品を見る前に述べるほど、フランスの映画批評界では名の知れた作家である。
『ボゴタの影La sombra del caminante』(2004)、『風の旅Los viajes del viento』(2009)では、母国コロンビアの街を舞台としたロードムービー的な作品を手がけたこの若手監督の新作では、物語の舞台をアマゾンの熱帯雨林の中へと大きく変える。『大河の抱擁』はふたりの西洋人冒険家−−20世紀初頭のドイツ人民俗学者テオドール・コッホ=グリュンベルグ(Theodor Koch-Grünberg)と、20世紀半ばのアメリカ人植物学者リチャード・エヴァンズ・シュルテス(Richard Evans Schultes)−−が、コロンビア人によって滅ぼされた先住民族唯一の生き残りであるカラマカテとともに、失われた民族とアマゾンの一部にしか存在しない植物を探し出そうとする、ふたつの時代のふたつの探検を、大胆に言えば「平行モンタージュ」によって描く川下りの冒険譚であり、疑いなくゲーラ映画の系列から外れないロードームービーであるといえよう。
実在したふたりの西洋人冒険家の体験に基づいて、激動の20世紀を通過するも変わることなく存在し続けるアマゾンのジャングルの中で撮影されたこの映画は、コロンビア人自身が忘れ去りたい先住民族の虐殺という歴史を、先住民族の視線から描く記録的な作品としてさまざまなところで評価されているようだ。しかし、ゲーラのフィルモグラフィーを踏まえた上でこの映画を見るならば、そうした評価は表面的なものだというほかない。事実、この映画においては侵略者/被侵略者という構図はいくつかの挿話のうちのひとつでしかなく、映画の最前面に浮かび上がってくることはないからだ。
ところで、アマゾンという空間をカメラに収めるためにはいかに振る舞うべきか?ヴェルナー・ヘルツォークのようにアマゾンという空間を弁証法的に強引に踏破していくべきなのか?それとも、セバスチャン・サルガドのカメラのように無垢な視線を投げかけ続けるべきなのか?それに対するチロ・ゲーラの答えは単純である。それは、空間を舞台化して踏破するのでもなく、集団の内部に参与するように入り込むのでもなく、ただ単に空間を通過していくという方法である。
ヘルツォークがクラウス・キンスキーという怪物との小競り合いを積み重ねることでしか、見渡す限り広がり続けるアマゾンという空間をカメラに収めることはできなかったように、一見すると『大河の抱擁』は「対立すること」の連続で成り立っているようである。近代化によって滅ぼされた部族の教えに固執し続けるカラマカテと、それとは対照的に描かれる近代化の最中にある原住民。「自然と一体化するべき」だとか、「雨季が来る前に魚を食べてはいけない」だとか、頑なにジャングルの掟を守り続けるカラマカテと、ふたりの西洋人冒険家。しかしそうした対立の一方で、チロ・ゲーラの登場人物たちはアマゾンという空間それ自体と対立することは禁じられている。ヘルツォークとゲーラの大きな差異とはそうしたことだ。つまり、たとえば『アギーレ』においてキンスキーはアマゾンとの対立が起きたならばその原因を根絶することでしか問題の解決法を見出せなかったのに対し、ゲーラの登場人物たちはそうした問題については目を背けることで別の空間へと「移行すること」だけが義務付けられているのである。探検を通じてつねに身軽になることを促されるコッホ=グリュンベルグ。過去の一瞬を切り取った写真は自分ではないと否定し、つねに移ろっていくことを促すカラマカテ。蓄音機を除く全ての荷物を捨てることによって身軽になることによって探し求めていた答えにたどり着くエヴァンズ・シュルテス......。
そこではもはや登場人物たちが辿るべき道筋などはもう存在していない。ヴェンダースによって映画史に刻まれたいくつかの記憶に残るロードムービーですら、物語に参与しようとする磁場からは完全に外に出ることがなかった。そうした意味で、もはやゲーラの映画はロードムービーと呼ぶことも相応しくない。それはただたんに「移動する映画」と呼ぶべきものなのだ。ゲーラの映画においては、もはやロードムービーのように次々と現れる対象と対立したり、会話して物語を進めていく必要などはない。そこには解決されるべき物語などすでに存在していないからである。ゲーラの「移動」とは次々と現れる対象から「逃走すること」にほかならない。孤児院での事件を引き起こし逃走するカラマカテ、コロンビア人との戦闘から逃げ惑う人々......。
そしてゲーラにおいて逃走することとは、空間の移動という意味に留まるものではない。ひとつの記憶に残るショットがある。中盤において、決して交わるはずのないふたつの隔てられた時間を、画面奥へと逃走していく20世紀初頭のカラマカテと20世紀中盤に再びこの孤児院のあった場所を再び通過するために訪れるカラマカテを、右から左へとアマゾン川を滑空していくカメラよって、ひとつの動きの中へと収められるショット。アンゲロプロスがひとつのショットの中に複数の時制を「共存させた」とするならば、ゲーラは「逃走」という行為を通して時制を「横断する」のである。移動すること、逃走すること、横断すること、この運動こそがチロ・ゲーラの映画のフェティッシュな対象であり、『大河の抱擁』の原動力なのだろう。