『母よ、』ナンニ・モレッティ隈元博樹
[ cinema ]
ナンニ・モレッティのフィルモグラフィを紐解けば、ミケーレ・アピチェッラやドン・ジュリオという人物を演じる彼の姿が浮かんでくる。当然ながら彼らを演じる以上、彼らはモレッティ自身であり、いっぽうでは分身のような存在でもある。モレッティとは異なるアイデンティティを持ったミケーレやジュリオは、左翼崩れの青年、数学者、映画監督、神父、さらには水球選手(ときどき共産党員)として、それぞれのフィルムの一翼を担うキャラクターだったのだ。しかし近年のモレッティはミケーレやジュリオを映画の中で演じることもなければ、画面上を奔走する主人公でもない。『親愛なる日記』と『エイプリル』によって「映画監督ナンニ・モレッティ」である自身を演じ、『息子の部屋』で演じた精神科医の父親役を契機に、劇中に登場するベルルスコーニ役の俳優(『夫婦の危機』)として、あるいはローマ法王を診療する精神科医(『ローマ法王の休日』)として、モレッティはシルヴィオ・オルランドやミシェル・ピコリの脇へと寄り添うようにして誰かを演じていくことになる。語り部となる主人公を別に据えることで、ミケーレたちや映画監督である自分とはちがう誰かを、モレッティは演じることになるのだ。
モレッティの役どころは、この『母よ、』においても同じことが言える。映画監督のマルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)が自作の撮影で多忙を極めるなか、彼は病床に伏す母(ジュリア・ラッツァリー二)のもとへと足繁く見舞う兄のジョヴァンニを演じている。そして母の最期を看取るために仕事を辞め、妹とともに来たるべき日を覚悟することになるのだ。実際に母を亡くしたモレッティがマルゲリータを演じるのではなく、映画監督である妹の兄を演じること。つまりこれまでのフィルムと同様に、モレッティは自身を他者として対象化させようとする。そして他者である自分は、マルゲリータという他者の脇へと寄り添うことで、やがて死にゆく母とのひとときを胸に刻んでいると言えるだろう(メインビジュアルにあるマルゲリータ・ブイにフォーカスを当てたナンニ・モレッティとのツーショットは、見事にこのことを言い当てたスチールだと思う)。
しかしこうした試みは、たんにモレッティが他者である兄を演じるにとどまらない。自身を他者として対象化させようとすることは、やがて自身を投影した他者、つまりマルゲリータの言葉によってその真意を詳らかにされることになる。ストライキの首謀者を演じる女優に対し、彼女による「キャラクターの隣にいる役者が見たいの」という助言は、首謀者である女性の心情や彼女が置かれた状況に自らを委ねることでもなければ、「その役になりきれ」ということでもない。与えられた役の隣にわが身を置きつつ、あくまでもその役の他者であれ、ということだ。このことはイタリア語のセリフに腐心するバリー(ジョン・タトゥーロ)にも、俳優という他者を構築するためのたしかなイメージとして浸透していく。モレッティがこれまでに体現してきた自身と他者との対象化は、このようにマルゲリータの身体と言葉を経由したひとつの演出として露呈されることになるのだ。
自身を他者として対象化させることで、さらなる他者へと寄り添うこと。そのために自身はキャラクターの隣にいる他者でなければならない。原題の「Mia Madre」(=私の母)が私でない絶対的な他者であることを暗示している以上、だからこそ教師だった母は教え子たちの母でもあり、ラテン語を教える孫娘にとっての母であり続けることができた。そして病室の母と差し向かいにある娘のマルゲリータはモレッティであるとともに、スクリーンを見つめる私たちなのかもしれない。やがて目の前の他者であったはずの俳優たちが自分なのではないかと気づいたとき、私たちは『母よ、』を通じてたどり着いた、モレッティの哲学に触れることができるのだ。