『リリーのすべて』トム・フーパー若林良
[ cinema ]
本作『リリーのすべて』は、第二次世界大戦前のドイツで世界初の性別適合手術を受け、男性から女性になった実在の人物の物語である。その製作背景としては様々であろうが、おそらくは、主人公のアイナー・ヴェイナー=性別移行後はリリー・エルベが、歴史上はじめて性別転換にふみきったことの、歴史的な意義が再評価されたことが大きいだろう。いわば現在におけるトランスジェンダーの人々の希望を提示した、偉大な先達であるという点で"彼女"のおこないに光があたり、いわゆる「伝記映画」の一環として、この『リリーのすべて』という作品が生まれてきたのだと言える。
ただ、本作を「伝記映画」としてみた場合、そこにはひとつの疑問が生まれる。たとえばリンカーンのような政治家やマルコムXのような社会運動家とは違い、リリーのおこないはこう言ってよければ、あくまで利己的な、自身にのみ還元される事柄である。本人にも誰かへの思いやりや、また社会に影響を与えようという意志は希薄であったはずだ。そうした人物を映画として描くことに異論はないとはいえ、たとえばプロダクション・ノートにおけるエディ・レッドメインの、「自分自身を見つけ、自分自身になるための勇気の物語」といった記述には、アイナーの生理的な欲求にもとづいての行動を、「勇気」などという小奇麗な言葉におきかえる、当人の感情を無視した欺瞞を強く覚えてしまう。また、「人生の困難をふたりでどのようにして乗り越えたか」といった記述にも、リリーとアイナーの妻ゲルダが、その後どのような人生の道筋をたどったのか、ふたりの実情を考慮したものとはあまり感じることができない。言ってしまえば本作は「称賛されるべき存在」という、伝記映画のもつひとつの型への傾斜が大きく、シンボライズが解除された"個人"としてのリリーを描くことを、初めから放棄しているように見えてしまうのである。そうした「小奇麗さ」は、この作品のいたるところに散見される。まず、アイナーが「女性になりたい」と感じるようになるまでの道のりが、大幅に短縮されている点である。実際のリリー・エルベは、1910年代から、手術を決行する1930年まで、およそ20年近くにわたり「女性」としての生活を続けていた。そのあいだの彼女の心理について断定することはできないとはいえ、おそらくはその長い年月の中で、リリーが自身の「女性」としての立ち位置を確立させてきたことは、後世の私たちにとっては想像に難くないだろう。
しかしながら、映画におけるアイナーの「女性」への目覚めから手術の決行までは、1928年~31年までのわずか3年の間のできごととされている。もちろん、映画が必ずしも史実通りである必要はないとはいえ、本作においては、アイナーが自身を「女性」であると確信を持つにいたるまでが、あまりにコンパクトにまとまりすぎている。はじめて「女性」としてゲルダの絵のモデルを引き受けたときの、何かに気がついたようなハッとした表情、リリーという名を初めて呼ばれたときの至福の表情、自身のペニスに対して違和感を払拭できず、ぎゅっと股ではさみ、そのなかでふと浮かべる苦悶の表情...。それらの表情の一つひとつは確かに感動的であり、私たち観客の胸をうつ。ただ、そうした仕草は言いかえれば、あまりにもこれみよがしな(クローズアップで示されることが多いこともあるが)、私はこんなに女性なんだ、と押し付けてくるようなものばかりであり、生活に根差したような「自然さ」は、ほとんど浮かび上がってこないのである。また、リリーにとっての"かけがえのない理解者"となるゲルダの人物像についても言及できる。劇中でのゲルダは当初、夫の行動に動揺を隠すことができないが、次第に「リリー」こそが夫の本質であることに気づき、その決断を応援するに至る。もちろんその間には、自身が愛した「アイナー」を失ってしまうという苦悩も存在するものの、その愛する夫が本当の自分となるために、もうひとりの夫――リリーという存在を次第に受け入れていくのである。
ゲルダを演じたアリシア・ヴィキャンデルはアカデミー助演女優賞を受賞したこともあり、その演技には一見不満はないように見える。しかしゲルダの決意がいまひとつ飲みこめないのは、前述のように映画内の「時間」が感じられないからかもしれない。「性別違和」という概念が確立された現代とは違い、当時は「性別を変えたい」という感情が何を意味するのか、はっきりとはわかっていなかった。そうした感情を他者であるゲルダが理解するには、時間の経過、もしくはそれまでに蓄積された関係性の糸が重要となるはずだが、本作ではどちらも十分に描かれたとは言い難い(原作ではアイナーの幼少期、ゲルダのかつての夫との死別など、過去のエピソードが入念に描かれているが、映画ではそれらはすべてカットされている)。そのため、このふたりの関係の特異性、言いかえれば固有性は私たちにはっきりと見えてこないままなのである。
レッドメインは『博士と彼女のセオリー』に続く好演で、日常の生活ではあまり見受けられない人物像を、確かなリアリティを持って浮かび上がらせている。ただ、ここでいうリアリティとはあくまで『リリーのすべて』という映画における「リアリティ」であり、実際のトランスジェンダーの人々に通底するような「リアリティ」ではない(こうした「リアリティ」の差異については、大澤真幸『不可能性の時代』に詳しい)。「箱庭のなかの物語」を描くのが映画であるのなら、本作は傑出した作品と呼ぶこともできるだろう。しかし映画のもつ可能性とは、はたして、それだけなのだろうか。ラストシーンにおける"飛翔"は、本来逆境に立ち向かったリリー、ゲルダのふたりを讃えるものであるはずなのに、確かなカタルシスはついに持ち得ないままだ。それは画面が全体としてシックな色調で統一されていることや、室内での映像が多いことからイメージとしての解放感を覚えにくい、ということ以上に、ふたりが結局は「箱庭」の外に飛びたてなかったことへの、居心地の悪さからくるのかもしれない。