『SHARING アナザーバージョン』篠崎誠結城秀勇
[ cinema ]
「このバージョンは、上映時間の長いバージョンのたんなる短縮版ではなく、文字通り"別の"バージョンなんです」とは、上映前の監督挨拶において強調されていたことであるが、このバージョンが、長いのと短いの、表と裏、右と左といったような対を補完するものとしてあるのではなく、ただ別なものとしてある、というのはなんだか重要な気がする。
というのも『SHARING』という作品自体が(そしてとりわけ「アナザーバージョン」において強調されている側面が)、いま目の前にある現実とは帳尻の合わない、なにか別の、もうひとつの映像に苛まれている者たちの物語であるからである。原発建屋の爆発や大津波の「予知夢」を見た人々へのリサーチを行っている研究者・瑛子(山田キヌヲ)と、津波に攫われた体験を「本当のこと」として夢で体験する大学生・薫(樋井明日香)。このふたりの女性が主人公となる『SHARING』において、彼女たち及び彼女たちに関わる人々が目にする映像が、未来のものなのか過去のものなのか、現実のものなのか想像の産物なのか、真実なのか作り事なのか、などということは一切問題にならない。東日本大震災に限らず、関東大震災にしろ大空襲にしろ阪神大震災にしろ、人知を越えた大災害を境にして、幽霊やドッペルゲンガーの目撃談が増えるものなのだと瑛子は語る。その目撃された映像の信憑性あるいは因果関係(すなわちオカルティズム)には興味はないが、その事象の増大にこそ興味があるのだと彼女は言う。つまり、彼女が収集するある映像についての談話は、そのひとつひとつがすべて"もうひとつの"映像についてのものなのであり、限りなく増殖する"もうひとつ"への畏れと魅惑こそが『SHARING』をかたちづくっている。
それら"もうひとつの"映像たちは、夢の中に、鏡の中に、ガラスの向こうに、舞台の上に、人混みの中に紛れて、次々と姿を現す。それらは厳密には、未来に起こり得ることでも、過去に起こったことでも、ここではない他の世界でなら起こり得たことでも、ない。いまここでだけ、この現実と重ね合わさるように見える"もうひとつの"映像なのである。どれだけ津波に流される家や車の映像を見つめようとも、どれだけ建屋の屋根を突き破る水蒸気や水素の化学変化の結果を映した映像を見ようとも、どれだけ2011年3月11日以降の世界を生きる人々の言葉を聞こうとも、そのうちのどれかひとつだけが決定的にただひとつの"正しい"映像であったりはしないことを、私たちは経験的に知っている。その上で、あの出来事に対する知識を満たし完結させるのではなく、むしろその出来事のフレーム自体を拡大させてしまうかのような"もうひとつの"映像を私たちは不謹慎にも面白いと思い、愛おしく思う。
そのことはおそらく、"もうひとつの"映像に恐怖を感じることが人間と動物の境目なのだという瑛子の言葉と通じている。そして、それを聞いた同僚が、"もうひとつの"映像に希望を覚えることもまた人間と動物の境目なのだ、と応えることにも。