« previous | メイン | next »

May 3, 2016

『追憶の森』ガス・ヴァン・サント
渡辺進也

[ cinema ]

『ミルク』以降、他人の書いたシナリオで作品を作るようになったガス・ヴァン・サントは、それまでの作家性とは異なる方法で、むしろ職人的なと言ってもいい熟練した方法で映画を作っているようで興味深い。前作『プロミスドランド』では、舞台となったあの町にないものは撮るつもりはないとばかりに、あの町にあるものだけをただひたすら撮り続けていた。「あるものはある」「ないものはない」である。今作の『追憶の森』においてはどうかといえば、目に見えているものと聞こえているものとで別のストーリーを語っているようである。見えているものに騙されるなとばかりに、音響によって映像を正していているようにさえ思える。
オープニングショットの青木ヶ原樹海を空撮で撮られたショットに驚かされるのは、それがいかにも日本ぽく見えないというよりは、そこに音が幾重にも重ねられていることである。風に揺れる木々の音、鳥のさえずり。ひとつの音にまた別の音が加えられ、重層的に音響が広がる。かと思えば、空港に現れたマシュー・マコノヒーの声がざわざわとした環境音の中にくっきりと浮かび上がる。耳をすましてみればほんの些細な物音が、そこかしこに溢れている。マコノヒーとナオミ・ワッツが家の中で言い争いをするとき、まるでそこでライブが行われるかのように音楽が聞こえる。新たな音が現れる時、それまであった音が聞こなくなる時、そこに新たな出来事が生まれる。『追憶の森』はちょっとこれまで記憶がないくらいに音響設計が素晴らしい。IMDbなどで『追憶の森』の情報を見ると、音響のパートのスタッフがやたら多いのは理由があるのではないだろうか。樹海のシーンでひっきりなしにかかっている劇伴の音楽はちょっと過剰かもしれないけど。
音は映像より先にやってくる。何かが起こる時、音がやってきてその後に映像が付いてくる。音は意味より先にやってくる。それが起こった時、すでに音によって示されていたことに気づく。映画全般を通して、マコノヒーが未だ意味を伴わない音によって導かれたように、そしてそのことに後から気付くというようになっているようでもある。
物語は理想の死に場所を求めて樹海にやってくるマシュー・マコノヒーがそこで渡辺謙演じる男と出会い、自己を見つめていくという、チラシなどで描かれていることのそれ以上でもそれ以下でもない。樹海の映像はそこまで変わり映えしないだろう。ただふたりの男が歩く様があるだけだろう。その時にこの映画のストーリーを語る方法は、映像によってではなく、音響によってではないかという作り手の明確な意思が感じられるようである。耳を澄まして聞いてみれば、映像以上に音響が豊かに映画を語っているように思える。いくつもの音が重ねられているこの映画で、ふたりの男が歩いている時、まるでそれがひとりの足音にしか聞こえないのは気のせいだろうか。

『追憶の森』全国ロードショー
http://tsuiokunomori.jp