『わたしの自由について』西原孝至三浦 翔
[ cinema ]
何故SEALDsをやっているのかという問いに対してSEALDsの牛田は、「授業でキング牧師の講演を見ていたら『私たちが目指してきたものは必ず達成される、しかしそれは私の生きている間では無い』と泣きながら語るシーンを見てしまったからだ」と語る。そこには、「どういった思想で」といった明確な答えがあるわけでは無い。過去から受け取ったバトン=コトバがあるだけだ。しかし、だからこそ彼らは強く、軽やかに運動を始める。
ネット上にはデモの映像がたくさんあり、様々なメディアがSEALDsを取り上げている。彼らはメディアに取り上げてもらうことを戦略としている。正直に言えばこの映画に新しさは無い。たくさんあるメディアの一部に過ぎないようにも見える。ただしSEALDsという若者に何かを求めようとするポルノグラフィックなメディアとは違い、この映画は無欲だ。それはネット上に溢れかえった映像に近い。監督自身が彼らに出会ってしまい、なんとなくカメラを回し始めた、ということしか無い。理由があるわけでは無い。ただ映像と映像によって、この運動に参加していくひとの思考を繋いでいく。だからこそ面白い。それが、彼らと同じ原理を備えたこの映画の魅力でもあるのではないか。
何がここまで人を結びつけるのか。この映画はSEALDsより若い世代のT-nsSOWLのデモの場面で終わるが、それはSEALDsの奥田が国会前で語る「自分たち若者は政治に関心がないなんて言われてきたけどこうやってデモを国会前でやってきて、いま小学生とか中学生とかがこのデモを見て大学生になったときはもっと凄いことになる」といった未来のビジョンを反映している。しかし、現実的に考えて疑いを持たざるを得ない楽天的なビジョンに、どうしようもなく惹きつけられてしまうこと、そこにこの映画がもたらす問題の本質がある。端的に言って、それはフィクションの力ではないか。
この映画に映る彼らの姿は「自由」だ。「自由」でフットワークの軽い彼らは、誰もが参加可能な変化へのプラットフォームを作りだす。わたしたちの違和感を繋げるメディアになること、それが彼らの戦略だ。しかし、実際に国会前デモを知っているものならば、そこに若者の数は多くないこと、この運動は彼らだけの功績では無いこと、それがかなり複雑な力学の上に成り立っていることは明らかだ。この映画はそうした運動の外部を映さない。ただし、その代わりにこの映画は彼らの顔を映す。彼らはよく笑っている。シュプレヒコールをしながら笑っている。絶望の淵で笑うこと。不可能なところでケロッとして笑うこと。それは、諦めの弱さではない。不可能なものに突き進む強さである。この映画はその純度を上げているのだ。そうした彼らの強さが、無根拠にも、彼らの語る「未来」に力を与え、それをフィクションとして信じ得る瞬間が生まれる。
そのとき微かな可能性が見える。何か出来るかもしれない余白が見える。重要なのは、「未来」から見出された可能性だ。運動によって社会は変わらないかもしれない。しかし、変わるかもしれないという余白を創出すること、それによって今までにない可能性を開くこと、社会の空気を変えてしまうこと。それこそ、彼らと、この映画が創りだすフィクションの力に他ならない。フィクションによって、「わたし」の力能が見出される。だから、本当に変わったかどうかは問題では無い。むしろ、変わり得る可能性に向かって、わたしたちひとり一人が行動出来るかが問われているのだ。
5/14(土)より渋谷アップリンク他、全国順次ロードショー