『或る終焉』ミシェル・フランコ常川拓也
[ cinema ]
閑静な住宅街の中、ティム・ロス演じるデヴィッドは、ひとりの十代の少女が家から出て車に乗り込むまでをじっと観察し、彼女が通りを車で走り出すと無言のまま追跡しはじめる。カメラはその様子を車内の助手席から長回しで捉える。次のカットでは、彼は夜な夜なフェイスブックでナディアという女の子の写真を何枚もチェックしている。第68回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した『或る終焉』のこのアヴァンタイトルを見て、このふたりが疎遠になった父娘だとわかる者が誰かいるだろうか。次第にデヴィッドとナディアの関係性を観客は読み取っていくことができるものの、映画は彼らの説明をほとんど断るどころか、不気味な気配すら忍ばせる。さらには、ナディアの通う大学構内でデヴィッドが彼女に劇中ではじめて声をかける時も、父親ならば名前を呼んで振り向かせればいいはずであるのに、背後からじわじわ忍び寄っていくかのような不穏な空気に満ちた演出がなされている。まるでストーカーがターゲットを狙っているかのように見える、または誤解させる。この演出はなんなのだろうかと思う。
デヴィッドは終末期患者の世話をする看護師である。決して表情を表に出すことがなく、すべての感情を内側に抱えた、というよりもすべての感情を失くしているかのようだ。彼は執着的なまでに、ほかの同業者よりもずっと多くの時間を死期の迫った患者とともに過ごそうとする。なぜ仕事の域を超えて献身するのか、私たちは彼の仕草や行動を通して、探るしかない。患者の糞尿などの処理は懇切に行う一方で、ジムで新しいタオルを袋から出された状態で渡されると激昂し、プライベートでは異常な潔癖性を垣間見せる。元建築家の老人の介護をしている時には、建築関係者と偽り、他人の家の中にズコズコと入って敷地を見て回る。こういったデヴィッドの二面性を観客は目撃し、さらに違和感が募っていく。
デヴィッドの日常は、死と向き合う患者の在宅看護と、一切の思考から離れてただ体を動かすことに没頭するエクササイズを繰り返すだけのものだ。その中で、すでに止めることのできない事態が進行しており、具合は悪くなる一方という沈鬱なムードが充満している。
メキシコ出身のミシェル・フランコは、感傷を徹底して排した演出の中、常に人物と一定の距離を置いたまま、遠目からこの物語を見つめていく。どんな場面でも冷徹に、フランコは計算された構図の画面(空間)を設計するのである。寡黙で緊張感に張り詰めた演出が、終末期医療や安楽死というテーマの重みをひしひしと観客に感じさせるであろう。前作『父の秘密』が『ファニーゲーム』的な要素を持っていたとすれば、今作は『愛、アムール』に近く、ミヒャエル・ハネケの影響下にあるであろうが、アプローチとしては成功しているように感じられる。
フランコの冷徹でリアリスティックなまなざしの中では、看護師デヴィッドが、患者の手に触れても治癒の効果はあらわれず、それどころか彼は、患者の家族からはあらぬ関係を疑われてしまう。ここでは、触れるという身振りは、癒すことも、相手の苦しみを軽減することにもつながらない。死と喪失が人生の一部となり、慢性的な鬱病──このフィルムは『Chronic』という原題を持つ──が、たしかに広がっていく。
思うに、患者宅でのふたりだけの密室空間は、デヴィッドにとって、社会性を保たなくてもよい場である(外の世界や患者の家族との接触など社会性が発生すると、途端に彼は現実への適応を欠いてしまう)。終末期患者は干渉してくることもなければ彼の危うい自我を脅かすこともない、一方的に働きかけることのできる対象である。だからこそ、息子を失ったことを機に、妻娘と別れて暮らすデヴィッドが好むのは、家の中であり、車の中であるだろう。
メロドラマ的な演出を拒むフランコの引いた距離感によるカメラは、生々しく即物的に終末期看護の現場を捉え、余韻や情緒といったものを残さない。どんな場面でも感情的な演出には傾かないことで、沈黙の中に、社会性を拒否したデヴィッドの憂鬱な空虚感が残酷なまでに一層浮かび上がってくるのである。そしてフランコは、死と慢性的な虚無感に取り憑かれたデヴィッドの歪んだ自我のありさまを、そのまま観客の前に差し出す。彼の不気味に見える行動も、不自然な違和感のままにじっと収めていく。しかし、対象を冷淡に機械的に映し出しているかのように見えて、彼の映画には、おそらく彼自身の死生観が色濃く反映されているだろう。フランコの映画の倫理性と、デヴィッドの生の虚ろさとの間で正邪の輪郭がぼやけていくことに、このフィルムの後を引く不穏さがあるのではないかと考えてみるのである。
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