『あなたの目になりたい』サッシャ・ギトリ結城秀勇
[ cinema ]
ジュヌヴィエーヴ・ギトリ演じるモデルが、サッシャ・ギトリ扮する彫刻家への恋心を祖母に打ち明けるとき、祖母はこう忠告する。一目ぼれは、それがふたり同時に起こるのなら、信じられる。もしどちらか一方だけなら危険だ。そして仮にふたり同時に起こったとしても、それでも危険なものだ。なぜならふたりは見つめあうけれど、実はなにも見ていないからだ。その熱いまなざし以外にはなにも。
画面に映し出される映像や文字や数量すべてを逐語的網羅的に自身の声によって再現前させるギトリ作品では、たとえば『夢を見ましょう』で恋人の到着を待ちわびる男の独白のように、ときに存在していない映像すら語られる言葉によって現実化しようとする試みが行われる。そこには「現実を言葉に従属させることができないという絶望」(ドミニク・パイーニ)が絶えずつきまとう。だがドイツ占領下に撮られた唯一の作品であるという『あなたの眼になりたい』では、言葉による現実の従属化という側面は、その他の作品よりも明らかに後景に退いている。氾濫する言語と映像の騒々しい過剰の代わりに、ここでは映像それ自体が静かに二重化していく。見えるものと見えないものとに。
彫刻家がモデルとの最初の作業に入るとき、彼はまず彼女に子供時代のことを考えるように言う。そしてふいに現在のことを考えるようにと、ついで未来のことを思い描くようにと。その過程で彫刻家は彼女の「均衡がちょっと崩れた」のを見抜き、象るべき美の線を見出す。彼が見出したのがいかなるかたちだったのかはその場では見えず、観客は次第にかたちづくられゆく胸像の姿によって確認するほかない。だがモデルと彼女の複製された映像である胸像との関係はさほど幸福なものではあり続けられない。モデルが恋人の手で作られる胸像に嫉妬しているぶんにはまだいい。しかし当初モデルが彫刻家のプロポーズに正式に返事をする予定であったその日、前日までの些細なケンカとそれによる返事の延期とによって冷ややかな空気に包まれるアトリエで、胸像の動きと完全にシンクロするようにポーズを強制させられるモデルの姿には空恐ろしささえ覚える。自分の似姿に完全に従属させられたモデルにとって、自分かその複製か、どちらかを破壊しなければならなくなる経緯はいたって必然的なものだ。そして彫刻家と作品との関係もまた抜き差しのならないものになる。彼は言う、「描いているものが見えず、見ているものが描けない」と。
彫刻家のその言葉はなんらの比喩ではなく文字通りに現実化する。彼は視力を失い、恋人を失う。物語の上では最終的には、つまらない言い方をすれば彼は視力を失う代わりに見えないものを見る術を学び、そして恋人を再び発見するわけだが、この物語を語っている間、ギトリの心境はいかなるものだったのかとつい考えてしまう。1871年、フランスが普仏戦争で敗北した年に製作された芸術作品を一室に集め、これこそが我々が得た「勝利」なのだとつぶやくとき。盲人専門の療法士に、「人を絶望させるのは"希望"なのです。そのことを誰もわかっていない」と言わせるとき。灯火管制下の夜の暗闇が昼夜を問わず常に生活を塗りつぶしてしまうのは、視力を失う彫刻家にとってだけではなく、パリに住むすべての人々、あるいはもっと広範囲の人々にとってでもありえたことを考えるとき。
フランソワ・トリュフォーが『フランス映画のある種の傾向』でなしたもっとも重要な批判は、テクストをある「等価な」映像に置き換えてはならないということだった。テクストにはテクストの生を、映画には映画の生を送り返す必要があるということ。そのことはギトリが幾多の作品で描く、ほとんど偏執的なまでの映像と音声の過剰な二重化、そしてそこまでしても現実を言葉に従属させることができないという絶望と、無関係ではない。どこまでいっても映像は映像であり、声は声である。懐中電灯の丸い光の外がまったくなにも見えない、あの他に置き換えのきかない深い深い闇の中で、恋人たちはそれでも自分の姿を言葉によって象ろうとする。その儚い努力を前にして、ヌーヴェルヴァーグが生んだひとつの系譜であるところの、夜の闇を前にして言葉を紡ぐ者たちの「夜の映画」の重要性を再確認する。
アンスティチュ・フランセ「恋愛のディスクール」6/29に上映あり