『天竜区奥領家大沢 夏』ほか「天竜区」シリーズ 堀禎一田中竜輔
[ cinema ]
静岡県浜松市、その最北部の山間地に位置する天竜区大沢集落は、村の開拓当初からその限られた土地を活用するために――歩くのも大変なほど急な勾配の斜面は多くの畑で占められている――最大で8軒までしか戸数は増やされなかった。今日では過疎化が進み3軒で4人が生活しているこの場所の、およそ1年にわたる人々の生活を映し出すのがこの全4本で4時間を超える「天竜区」シリーズである。だが、そうした背景や事前知識についてはほとんど何の説明もなくこの4本のフィルムは始まる。私がこの地の背景について知ったのは、作品を見終えた後に調べてのことに過ぎない。
この4作品を通して、その多くがフィックスで撮影されたひとつひとつのショットには、遠景を捉えたロングショットであれ特定の対象へのクロースアップであれ、それらが何かの「一部」であることを指し示すような感覚は希薄である。小さな木の実や岩肌や古びた工具たちは、何かの部分を示すものではなく、あくまでそれ自体としてひとつの宇宙を示すようなものとして固定画面に屹立しているように見える。そうした印象を強めているのは、ショットの余韻を断ち切るかのごときタイミングで繋げられる画面の編集の速度であり、そしてその画面ごとの同録で捉えられたと思しき音響の繋げ方だ。せせらぎと呼ぶには乱暴な川の流れ、山間に鳴り響く鳥の声、あるいは農業工具のモーター音や集落に鳴り渡る有線放送に至るまで、様々な音響はそれぞれの差異をこそ強調するかのように、どこか強引な手口で繋げられる。無数の音階が紡ぎ上げるひとつの大きなオーケストラ......みたいな比喩が似合う調和ではなく、まるでラジオのチャンネルをダイヤルでザッピングするときのような非調和を志向するかのごとく、ショットの継ぎ目ごとに音は大胆に断ち切られ、そこに新たな音が現れる。そうした印象も相俟ってこのフィルムに映し出される「大沢」という場所は、美麗な一枚の風景画としてではなく、異なった輪郭やサイズや質感をもった複数の絵画によるモザイクのごときものとして見えてくる。
一方で、この地にまつわる歴史や自身の仕事について語る別所賞吉さんのオフのナレーションは、若干の編集こそ介在しているものの、あくまで線的な連続性を保ったままにある。ショットごとの大胆な映像-音響の切断と接合を背景に、そのしゃがれた声はあくまでひと続きのものとしての印象を残す。だがしかし、そこにはほとんど何を語られているのかが判別がつかないほどの方言の癖の強さがあり、そこで語られる出来事には過剰なまでの空間的・時間的な飛躍があったりする。一見ひと続きであるように聞こえる声-語りもまた、それとともに提示される映像-音響と同様に、複雑な切断と接合を繰り返しているようだ。
このフィルムにおける「映像-音響」と「声-語り」の間には、相互補完の関係も二項対立の関係もない。たとえば、「映像-音響」とは記録であり「声-語り」とは記憶である、などと表現すればもっともらしく聞こえるかもしれないが、そんなことはあくまで恣意的な判断に過ぎない。堀禎一は「ここに手が、ほら、顔が!」と題された素晴らしいジャン=クロード・ルソー論(「中央評論」誌 No.287所収)のなかで、映画とは「一回性の日常を一回性の『イマージュ』として記録するメディア」であると記していたが、それに倣えば、『天竜区奥領家大沢 夏/冬』における別所さんの「声-語り」とは、このフィルムにおける「映像-音響」と同様な、「一回性の日常を一回性の『イマージュ』として記録するメディア」に、すなわち「映画」にほかならない。つまり、ここには「映像-音響」と「声-語り」という、ふたつの異なるかたちを有した映画が存在するのだ。
かつてマノエル・ド・オリヴェイラは「真に映画を特徴づけるのは、ショットと音の継起である」と述べたが(「言葉と映画」)、「天竜区」シリーズにおける「声-語り」と「映像-音響」の間にある試みとは、まさしくこのようなオリヴェイラの思考の延長線上にあるものだろう。「天竜区」シリーズにおける「声-語り」と「映像-音響」は、異なるふたつの映画として同じ時空に同時に生起し、その衝突においてあらたな姿を獲得し続けてゆく。そのとき「大沢」という地とそこにまつわる様々な逸話は、ただひとつの正しいイメージに落ち着くことはなく、絶え間ない変化に与えられたかりそめの名としてぼんやりと浮かび上がる。季節というものがつねにただひとつの「夏」や「冬」などで示され得るものではないように、無数の切断と接合と衝突を重ねることで、私たちは「大沢」という地とその歴史を、その継起ごとに知覚する。
新日本作家主義烈伝 vol.12 堀禎一
2016年6月24日(金)、6月25日(土) アテネ・フランセ文化センターにて上映予定