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June 28, 2016

『団地』阪本順治
田中竜輔

[ cinema ]

タイトルからして団地で繰り広げられる悲喜交々の人間模様が描かれるのかと想像していたら、まったく違った。舞台となる団地で中心的な被写体となるのは10名前後。いわゆる「ご近所付き合い」はその範囲にしかなく、そして実質的に生活が描かれるのは主人公である藤山直美と岸部一徳の夫婦だけだ。建築物としての外観こそ頻繁にフレームに収められるも、他の住民の部屋はごくわずかな場面を除けば存在さえ示唆されることはない。藤山と岸部の部屋、そこへと至る階段、棟の入り口近辺、共用ゴミ捨て場、そして集会所だけが、あたかもこの団地のすべてであるかのように見える。夫妻以外の人々は、そもそも本当にこの団地に住んでいるのかどうかさえ怪しい。
とはいえ、夫婦以外の人々の存在感が薄いというわけではない。彼らにはむしろ過剰なまでにはっきりとした役割が課せられている。たとえば藤山直美が家を出ようとすれば、井戸端会議の女たちはひそひそと彼女に合わせるかのように噂話を始め、岸部一徳がゴミを捨てに出れば自治会長の妻はモノローグのように愚痴を語り始め、集会所では石橋蓮司と宅間孝行が漫才のように口論をする。とりわけ井戸端会議の面々に顕著だが、彼らの唯一の日常を形成している噂話の場面は、ほとんど音や光に反応する玩具のようなものとして行われる。そんな団地の住民たちに対して「個性豊かな面々」といった類の表現はあまりそぐわない。なぜなら彼らには「個性がある」というよりは「個性しかない」のであって、それ以外の生活はほとんど剥奪されているようであるからだ。団地の住人であることを示すリアリズムはそこにはほとんど見受けられない。
そのような人間の装置化とでも呼ぶべき事態を貫くことにおいて、『団地』にはミュージカル・コメディと呼ばれるジャンルの片鱗を匂わせるところがある。もし自分たちが自治会長に当選したのなら、団地の住民たちと集会所で歌い踊る会合を開くという妄想を、夫婦はそのままミュージカルの場面として夢想しているのだが、ここではっきりと示されているのは、夫婦にとってこの団地とは日々の暮らしを維持するための場所ではなく、息子を失ったという現実から逃避するために必要とされた場所であるということだ。かつて漢方薬店の店先で撮影された家族写真のような自然さは、この団地での生活には無縁だ。この夫婦にとって団地での生活とは非日常それ自体のことなのである。
『団地』はそのような意味での非日常の場に迷い込んだひと組の夫婦が、そこから脱出するまでの道程を描くフィルムであると言えるかもしれない。夫婦は、真城(斉藤工)という特異な人物に協力することでかつての仕事に再び取組み、そして「ガッチャマンの歌」を口ずさむ被虐待児の少年との交流(藤山がベランダに放置された少年の歌声を称賛する場面の素晴らしさ!)を経て、まったく別のやり方で現実を生き直すことを決断する。このフィルムの終盤にはSFとも表現しうる突飛な展開が待ち構えているが、その事態は集会所でパーティーを開くといった逃避の幻想とは似ても似つかない。彼らは驚くべき光景を目の前にしながら、団地という非日常に留まることをよしとせず、真城の導くもうひとつの現実へと歩みを進める。恋する女のために現実の生活を捨て二度とは戻れぬ霧の中の村へと舞い戻った『ブリガドーン』のジーン・ケリーのごとき彼らの決断を、『団地』は祝福する。

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