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July 11, 2016

2016年 カンヌ国際映画祭報告(番外編)
槻舘南菜子

[ cinema ]

Hors Cannes
映画祭期間中に、トロント国際映画祭のプログラマーである友人のアダム・クックの紹介で、フィリップ・ガレルの弟、ティエリー・ガレルにインタヴューすることになった。ティエリー・ガレルは現在67歳、今回のカンヌには昨年から創設されたドキュメンタリー作品に与えられる「黄金の眼 L'Oeil d'or /The Golden Eye」賞 の審査員のひとりとして滞在していた。彼との出会いについて、最後に簡単に記してこのレポートを終わりたいと思う。

映画祭メイン会場の近くのカフェで待ち合わせ。兄フィリップの顔をぎゅっと詰めて背をもっと高くした感じ、と言えばよいだろうか(髪型は似ている......)。兄と比べても初対面からだいぶ感じがよい。
インタヴューは彼の子供時代――父のモーリス・ガレルはティエリーが1歳の時にはすでに家を出てしまっていて実質は母親だけに育てられていたこと、兄のフィリップと2年前に亡くなっている末弟フランソワ(プログレッシブ・ロック・バンド、Ame sonのメンバーだった)――について伺うことから始まった。フィリップ・ガレルがまだ12歳だった1960年に8ミリで一緒に西部劇を撮ったという驚くべきエピソードや、『調子の狂った子供たち』の撮影についてもティエリーは淀みなく話をしてくれた。60年代初頭にガレル3兄弟は、その後長年にわたりガレル作品の撮影を手掛けるパスカル・ラペルーサと、その兄弟であるギョームとジェロームとともに「三兄弟同士」でつるんでいたという。彼らは俳優として初期ガレル作品(『調子の狂った子供たち』『訪問の権利』『アネモーヌ』など)に出演していて、家族のヴァカンス先だったノルマンディーの邸宅が『調子の狂った子供たち』の撮影現場となった。
2本の短編(『調子の狂った子供たち』『訪問の権利』)の撮影後、フィリップ・ガレルは中学校を中退し、父親モーリス・ガレルの友人ジャン=ピエール・ラジュルナルドの紹介でフランス国営のテレビ/ラジオ局ORTF(フランス放送協会)で働き始める。ラジュルナルド作品のアシスタントや俳優を務めつつ、当時の若者の肖像を切り取る「Buton Rouge」というシリーズを手掛けており、自身で作品の前説を務めてドノヴァンやザ・フーを撮影、ジュリアン・ベック、マリアンヌ・フェイスフルへのインタヴューなどにも携わった。ティエリーもTV時代のガレル作品にはアシスタントとして関わっていたそうだ。
ティエリーは革命前夜の1967年『記憶のためのマリー』に出演後に、ザンジバールのメンバーであるオリヴィエ・モセットやセルジュ・バールに知り合ったことで、このグループの始まりを告げる『Destruisez-vous』に参加し、彼らとともにモロッコに旅立つ。一方で五月革命を経てから、フィリップとの交流は途絶えてしまったという。その当時のフィリップはニコとともにドラッグに溺れ、モーリスとも距離をとっていた時期だった。
1969年、当時のORTFの責任者であった作曲家ピエール・シェフェールの手引きでティエリーはアーカイヴ部門に配属され、74年からはL'INA(フランス国立視聴覚研究所)でアニエス・ヴァルダの『Daguerreotypes』やシャンタル・アケルマンの『New from Home』の製作アシスタントになり、本格的にプロデューサーとしての仕事を開始する。1987年にはARTEの前身である「La Sept」局に入り、1973年以降には製作が中断されていたジャニーヌ・バザン、アンドレ・S・ラバルトによる「我々の時代の映画作家シリーズ」の再開に寄与し、その後はクリス・マルケル『フクロウの遺産(L'Héritage de la chouette )』や、イェルバン・ジャニキアン&アンジェラ・リッチ・ルッキ、ヴィターリー・カネフスキー、シャンタル・アケルマンなどの製作を次々と手がけ、1989年にはフィリップ・ガレルのほぼ唯一のドキュメンタリー作品である『芸術省』の製作の援助も行った。
定年までARTEに務めたのちに、ティエリーはパリを離れた。現在はバンクーバーを拠点にドキュメンタリー映画祭のプログラミングを手掛けるほか、フリーランスのアソシエイト・プロデューサーとして活動しているという。

第69回カンヌ国際映画祭