『人間と魚が浜』三野新三浦翔
[ theater ]
釣りと、狙撃が似ているのはそれがターゲットを捉えるという意味においてなのだが、写真家の三野新がそれを考えることの根底には、見ることの問題がある。釣り人役(宮崎晋太朗)が懐中電灯で魚役(大場みなみと滝沢朋恵)を照らし出すとき、魚役は「死んだ」と言うことで、ここにひとつのルールがあることが分かる。これは、ひとつの釣りであり狙撃なのであるが、丁寧にも懐中電灯の明かりは四角に縁どられており、これが写真や映画のフレームに似ていることから、やはりこれも見ることの問題だと考えられる。見られる=死ぬ、というルールが魚役と人間役の間に成り立つ。魚役は、劇場内にばら撒かれた発泡スチロールの山=構造物に隠れながら、人間役に見られることから逃げまわる。
一方、もうひとりの人間役(佐藤駿)は魚役(大場)の動きに鏡張りで合わせていくことでコミュニケーションを取ろうとするが、もう一人の魚役(滝沢)が光に捉えられることで死ぬと同時に、人間役(佐藤)と魚役(大場)のコミュニケーションも失敗する。三野はここに、人間役と魚役がコミュニケーションする可能性を置いていないように思える。
魚役にとって、大事なのは何か。それは構造物である。劇中、発泡スチロールの山=構造物が魚役にとっての隠れ蓑になる。「僕は一緒に住む方法を探しています」と人間役(佐藤)の台詞があるが、それは構造物ごと魚役を見るということではないだろうか。終盤、魚役(大場)が発泡スチロールの山を築き、人間役(佐藤)がそれを片付ける作業が延々と繰り返される。「わたしを見て」と魚役(大場)が言うが、それを無視して片付け続ける人間役(佐藤)。ここで重要なのは、やはり構造物である。魚役を、殺すとは別のしかたで見るということは、魚役を守る構造物ごと、弱さとともに魚役を見なければならないのではないか。それは、観賞用に水草を買ってあげて水槽の中で管理する見方とは別の見方である。魚役とともに住むこと、すなわち魚役との共生可能性はそこにあるはずだ。
「振りかえった先に魚がいます」というのは、まさに別の見方で魚役を見ることを意味している。しかし、この振りかえるという動作には、自分自身を相対化するという意味もあるように思える。つまり、自分が何処から見ているかを意識すること。人間役と魚役は結局、陸と水中の全く違う環境に生きる生き物だ。そのことにもう一度立ち帰らなければ、魚役とのコミュニケーションは出来ないだろう。浜辺とは陸と水中の異質な環境が出会う場所だ。そこに異質な存在がコミュニケーションする可能性があるのだろうか。『人間と魚が浜』とは、そうした不可能な可能性の場所なのである。
ただしこれは、私たち人間の問いである。つまり、戦争の、グローバル資本主義の中で管理され逃げ場が無くなっている私たちのお話なのである。そのことを忘れてはならない。というより、現実の魚とのコミュニケーション可能性などこの演劇ではじめから問われていない。弱きものと強きもの、全く異質な世界に住む私たちがどのようにコミュニケーションをするか。私は、最後に、弱き魚役(滝沢)の歌を聞きながら、構造物と一体化した人+魚(立川貴一)という新たな神話を目撃したのである。
7/14(木)~7/18(月・祝)、G/P gallery shinonomeにて