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July 16, 2016

『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』黒川幸則
田中竜輔

[ cinema ]

「村の中の村(Village in the village)」でなく「村の上の村(Village on the village)」。ひとりのバンドマンがごろりと迷い込んだこの村は、たとえばシャマランの『ヴィレッジ』のように隔離され幽閉された空間ではなく、スマホもネットもビールも充実しているし、なんなら普通に自動車も電車も走っているような場所だ。「on」という前置詞を率直に読み解こうとするのなら、古賀さん(鈴木卓爾)という男がボスであると思しき「村の上の村」とは、たとえば一枚のビニールシートかピザ生地のような「面」として、その下にあるもうひとつの村、いわば「村の下の村(Village under the village)」を覆い隠す一枚の「膜」なのではないか。とはいえ姿形をまるごと隠せるわけもなく、むしろそれが持ちうる輪郭や色彩を過剰なまでにくっきりと浮かび上らせてしまう、蛇やトカゲが脱皮した皮膚をそのまま身にまとっているかのような脆さにおいて、この「村の上の村」はようやく存在している。
このフィルムには、木々の緑や差し込む深い影や陽光を反射する水面といった風景が、その対象自体に基づく視覚的な美としてそのままに提示される一方で、つねに自然さからは逸脱した身振りを徹底する人々が共存している。ビールの目いっぱい入ったジョッキを両手に持って坂を走る男や、伸び切ったカップヌードルを手放さない女、まったくどこの誰とも知れないうめき声。調停者も侵入者も誰もが、自身の身振りを自然さから距離を置くことにおいてこの村を生きている。だからこそこの村の現在の管理者たる古賀さんにとって、傍目にはごく自然に振る舞っているように見えるようなタイプの闖入者たちが最も危険な存在なのだろう。まるで自然ではない別種の秩序を構成する彼らが、あたかも現実そのものであるかのような自然さを装ってしまうこととは、この村が「村の上の村」である事態を否定するような身振りに直結してしまうからだ。
文字通りの薄皮一枚で成り立つ「村の上の村」は「村の下の村」と確かに関わりを持つ。だがしかし決して同一の場所ではない。「村の上の村」とは、特定の対象をカメラで撮影しレコーダーで録音することで初めて生み出される、映画の化身のような場所なのだ。そうした事態が最も美しく描き出されるのは、とある喫茶店と思しき場所での中西(田中淳一郎)の奏でるギターに合わせて近藤さん(佐伯美波)が歌う場面。この場面でカメラと録音機はその店の外側に立ち、その場所から離れることなく彼らの身振りと音楽を窓越しに捉え続けることで、その間にある「窓」をも演奏に参加させる。カメラという窓の上に重なるもうひとつの窓。その二重のフィルターがふたりに与える虚ろさこそが、ここでの演奏をかけがえのない瞬間としてこのフィルムに定着させている大きな要素だ。これに近接した場面としては、たとえば「PCモニター」という窓越しに旧友と再会し涙を流しながら酒を酌み交わす古賀さんの場面が忘れられない。『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』は、つくりものであるがゆえのかけがえのなさを獲得する方法を、喜劇という形式において模索した貴重な作品だ。

2016年8月6日(土)-19日(金) 新宿K's cinemaにて 21:00~レイトショー