『ファースト・タイム 素敵な恋の始め方』ジョナサン・カスダン結城秀勇
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Netflixで「フリークス学園」を見ていて、2000年前後のこの界隈の人材の豊富さをしみじみ考える。セス・ローゲン、ジェームズ・フランコをはじめとするアパトー・ギャングは言わずもがな、マイク・ホワイトは後に『スクール・オブ・ロック』でリンクレイターと組んでたりしたのに最近映画周りでは名前を聞かないな、とか、当然のようにベン・スティラーのカメオ出演とか。なかでも気になったのが、ジェイクとジョンのカスダン兄弟の存在である。この界隈を知るための最大の良書であろう『ヤング・アダルトUSA』(長谷川町蔵、山崎まどか)でも、このふたりはほとんどふれられていない。弟ジョンがジョナサン・カスダン名義で撮った『ランド・オブ・ウーマン』、超いい映画だったのになあ。
というわけでカスダン兄弟の日本で発売されている最新作、『SEXテープ』と『ファースト・タイム』を見てみることにする(と言っても前者は2014年、後者に至っては2012年の作品だが)。ジェイクの『SEXテープ』も悪くない、キャメロン・ディアス級の女優が出る大型コメディを見るのも久しぶりだったので楽しめた。しかしなんといっても『ファースト・タイム』が素晴らしすぎる!
パーティ会場となる家の玄関に駆け込むティーンたちをスローモーションで映し出すスタイリッシュなタイトルバック。その家の灯りと喧騒から離れた表の通りで、デイヴ(ディラン・オブライエン)とオーブリー(ブリット・ロバートソン)は出会う。デイヴは好きな娘に告白しようとしているが、その娘はジョックスな体育会系イケメンといちゃいちゃしてばかりいるので居てもたってもいられず会場を飛び出してきた、そんな話を、初めて出会った見ず知らずの女の子に道端に腰掛けながらダラダラ話す、そうこうしてる間に警察がやってきてパーティはお開きになり、ふたりはなんとなく夜の街をぶらぶら歩いて帰ることに......。もうこのオープニング部分だけで良作青春映画の予感がビンビンくる。そしてその予感は当たってもいるのだが、同時にそれだけでもないところがこの映画が傑作たるゆえん。
「このSNS全盛のご時世じゃ、まだ誰もやってないことなんてできない。セックスして楽しんで、でも、別にいいけど、それじゃクリシェになるだけ」。初めて出会った晩に彼らはそんな会話を交わし、添い寝するだけのソフレ関係で翌朝を迎える。なんだか大人な感じ。これがいまっぽいのか。そしてその晩の出来事を、ギークなアジア系とデッカい黒人の友達に話して聞かすデイヴ。この構図もアパトー関連でもっと年上のやつらがやってるのを見たことある。なんか大人な感じ。さらには幼い妹の子守をダシにオーブリーを公園デートに誘い出すデイヴ。なんか大人な感じ......っていうか、アダム・サンドラーとかベン・スティラーとかドリュー・バリモアとかが主演とかしてそうな子連れの男のラブコメみたいな展開だぞ。全然若々しくない。
というわけで、この映画のタイトルである「ファースト・タイム」は、誰もが若いときに必ず一度は通るイニシエーションだったり、逆に誰もが若いときだけたった一回経験できる素晴らしいものだったりはしない。じゃあなにか。文字通りのブラックボックスなのである。デイヴとオーブリーが初めてセックスする晩、その瞬間になにが起こったのか、観客は目にすることはない。それどころか本人たちでさえ、いったいなにが起こったのかさだかではない。どうもうまくいかなかったのはたしからしい。だが未遂に終わったというわけではなく、なにかが決定的に起こってしまっている。その出来事は明確に映像化されることも、明確に言語化されることもなく、そのまま彼らの間に障壁として留まる。
高校卒業を控え街を出ていくことになっている男の子、まだもう一年この街に留まらなければならない女の子、そして彼らの脱バージン、ある特有の時期にしか起こらない出来事を問題にするという意味では極めて青春映画的でありながら、同時にその期間限定的な「ファースト・タイム」のきらめき神話への徹底した抵抗ぶりから、『ファースト・タイム』は特異な作品になっている。母親としてのメグ・ライアンというイメージを見事に誕生させた『ランド・オブ・ウーマン』から一貫してジョナサン・カスダンは、この、青春映画だか、ラブコメだか、コメディだか、ブロマンス(ロマンティック・コメディの骨格だが男同士の友情が中心のもの)だか、ティーンズムービーなのか、全部まとめてなんと呼んでいいのかよくわからない「この界隈」を歴史的に横断しておおらかにつなぎとめる仕事をしていると思う。だからこの映画は、在りし日の輝かしい「ファースト・タイム」を懐かしむ人向けの映画ではないし、やがて来るはずの様々なレベルでの「ファースト・タイム」への期待に胸膨らます人向けの映画でもない。過剰な期待とそれと背中合わせの幻滅から「ファースト・タイム」を救い出し、それに相応しい映像と言葉を与えるべく、終わらない「ファースト・タイム」の延長を生き続けるすべての老若男女のための映画なのだ。