『人間のために』三浦翔結城秀勇
[ cinema ]
「闘争の最小回路とは、力のクリスタルのことだ。力のクリスタルは、ふたつのレヴェルにおいて形成される。第一のレヴェルは、行為と知覚の結晶化プロセスだ。映画や演劇の俳優は、行為と知覚とのこのクリスタルを生きている。優れた俳優は、演技をすると同時に、演技する自分をつねに知覚してもいるからだ。俳優とは、自己をアクター/オーディエンスへと二重化し、自己においてそれらを結晶化させる術を知っている者のこと、自分自身をひとつの最小の「劇場」とする術を知っている者のことなのである」(廣瀬純『闘争の最小回路』)
陰謀(?)によって辞職させられた大学教師を探す劇団員たちというジャック・リヴェットを思わせるプロット。時折挿入されるインターポーズのフォントが創造社時代の大島渚のやつになんか似てる。似てるというかなんというかこれはストローブ=ユイレなんだなという状況下で繰り広げられる「野音裁判」。挙げていけばキリがないほど、『人間のために』にはそうした「政治的に熱かった時代」の作品を想起させる細部に溢れている。とはいえそうした60年代末の政治的前衛を思わせる要素は、映画史的な引用と呼ぶほどのものでもないし、ご大層なオマージュなどでもない。それらを通じて熱かったあの時代の熱をこの作品の中に導き入れようとするような、そんな使い方はなされていない。むしろそっけないというか、愚直なというか、そんな手振りで、かつてそこにあったのが「熱」だったのなら、いまここにあるのも、温度は違うかもしれないけど「熱」には違いないでしょ、と指し示すかのようである。
だから『人間のために』の劇団員たちは上記に挙げた固有名詞よりはむしろ、ゴダールの映画に出てくる人々を、それもジガ・ヴェルトフ集団名義になる直前の『中国女』や『たのしい知識』とかに出てくる人々のなんとも言えぬ「小芝居」感をより強く思い出させる。夏休みを使って労働者を調査する『中国女』の学生たち、昼は働いて夜会議する『たのしい知識』のふたり。行為者とも観客ともつかぬ立場で現状になんとか関わろうとする彼らが、アクターとオーディエンスの間で揺れ動くその不安定さと軽さを、『人間のために』の劇団員たちもまた独自のやり方で獲得している。
そのアクターとオーディエンスの間の振幅、つまり震えこそが、この作品のキモなのである。劇団員たちが「戦争がしたくなくて震え」出すとき、それが共振するように広がっていくとき、ただの観客であったはずの私たちもまた、ブルッと震えるのに気づく。