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September 14, 2016

『チリの闘い』パトリシオ・グスマン
三浦 翔

[ cinema ]

一九七〇年、チリに世界初の選挙による社会主義政権が誕生した。『チリの闘い』には、このアジェンデ政権が、一九七三年九・一一の軍事クーデターによって倒れるまでの過程が記録されている。第一部「ブルジョワジーの反乱」と第二部「クーデター」を通して見えてくるのは、固有名詞の強さである。この映画の主役は政治家では無い。街頭インタビュー、工場での議論、デモなど、無数の発言によって政治が描かれる。彼らは「アジェンデ」という言葉とともに自身が夢見る国を語る。生活が、アジェンデ政権のおかげで良くなったことが実感として語られる。そこでは自らの生を政治の言葉で語ることが出来なかったものたちが、「アジェンデ」という固有名詞のもとに発言する場が得られる。
しかしそれは、アジェンデに対抗するブルジョワジー=右派にとっても同じである。彼らは、あらゆる手段を使い議会を混乱させ、そしてCIAの援助を受けてストライキやデモを起こす。そのときにも「アジェンデ」という言葉が使われる。ただし、この場合は否定的な意味で。労働者の政権を否定する右派が労働者のために「マルクス主義者を追放しろ」「自由を」と叫ぶのは奇妙であるが、デモやストライキ、政治といったものは表面上、言葉の意味を巡って闘われる。ただし、ここにはCIAの援助と軍部の力という純粋な言葉だけの政治ではない問題が入りこんでいることを忘れてはならない。ここまでで、民衆はアジェンデとともに己の存在を発見したが、同時にその内側から異なる論理によって分裂していく過程までもが見えてくる。
三部構成のこの映画で重要なのは、終わりが繰り返されることである。時系列的な語りは、第二部のラストに配置された空爆の映像とアジェンデの遺言「歴史は人民のものであり、労働者のものである」というラジオ放送とともに終了する。第三部では、クーデター以後のチリが語られず、もう一度、クーデター以前が語られる。それは、歴史の分岐点に立ち帰り、不可能であった夢の国を幻視しようとするものかもしれない。しかし、われわれは全く別の理論をそこから見出すことが出来るのではないか。
第三部「民衆の力」で語られるのは、「もし俺たちのアジェンデがダメだったとしたらどうしたらいいのか、俺たちがアジェンデを守り闘い始めねばならない」ということである。アジェンデにより与えられる側であった民衆が、自主的に職場を改善し、経済的な闘争による、自己組織化する革命を始める。民衆はこれまでの闘いで自らの力能を見出したのだ。第三部の主役はチリの民衆である。バスのストライキにより交通機関を失った労働者が、超過定員の市営バスに乗り職場に行く。トラックのストライキには、自分でトラックを出し作物を届ける。労働者が半分以下になった工場も、少ない技術者が他の工場も面倒を見ながら労働を続ける。それぞれが別な手段で自らの仕事を続け、現体制を支える。それでも生産量は落ちないと彼らは自信を持って言う。CIAによる策略も、ブルジョワジーによる傲慢な利益追求の策略も、民衆の力によって挫かれる。一度はバラバラになった労働者が職場に戻ってくる。それほど強い基盤がこの国には存在したのだ。この強さは何か。一見、デモや軍部のクーデターというスペクタクルな映像によって見えなくなってしまう真実がここにあるのではないだろうか。

2016年9月10日(土)より、ユーロスペースほか全国順次ロードショー