『スラッカー』リチャード・リンクレイター結城秀勇
[ cinema ]
リンクレイターの長編2作目にあたる1991年の作品。「インディーズ映画の雄リチャード・リンクレイター(『6才のボクが、大人になるまで。』)が描くジェネレーションX青春映画です。後世に絶大な影響を与え(とくにケヴィン・スミス)、のちに監督する事となる傑作『バッド・チューニング』の関連も随所に見て取れる90年代インディペンデント映画の歴史的な一本!」(Gucchi's Free School 作品解説
より)との解説通り、後年の作品に見られる「リンクレイターっぽさ」がぎっしり詰まった作品である。特になにをしているわけでもない人たちが行ったり来たりし、人々がすれ違ったりする度にカメラは別の人に焦点をスイッチングしてその人を追いかけ出し、そうして特に関係もほとんどないようなテキサス州オースティンのヒマそうな人々が次々に連鎖していく光景がこの映画をつくっている。主軸となるストーリーを欠いたままに行き交う人々の魅力を原動力として作り上げられたかのような構成は『バッド・チューニング』(そして未見だがまもなく公開される『エブリバディ・ウォンツ・サム‼︎世界はボクらの手の中に』もどうやらそんな映画らしいし)を彷彿とさせるし、早朝から始まり翌日の早朝までで映画が終わるというのも『6才のボクが〜』や「ビフォア〜」シリーズにある「時間」のテーマを思い出させもする。
そんな中でも、とりわけこの映画を見て思い出したのは『ウェイキング・ライフ』のことだった。くだらない理由としては、出てくる人たちがやたら哲学や科学や文学や社会学の話をするから。リチャード・リンクレイター本人が冒頭に出てきて長々と夢の話をするのが『スラッカー』で、最後に出てきて長々とフィリップ・K・ディックの話をするのが『ウェイキング・ライフ』と覚えると良し。だがそれではあんまりなのでもうちょっとマシな理由を考えるなら、『ウェイキング・ライフ』がそのタイトルに反して、「目覚めている人生」ではなくてむしろその反対の夢や死後の生などを巡る作品であるのと同じように、『スラッカー』もまた、そのタイトル通りの怠け者たち、なにも望まないしなにもしない人たちというよりは、ここにはないなにかを強く希求しその実現のためのプランを練り続けている人々の映画に見えるからである。そのなにかは決してこの作品内では実現も到来もしない。にもかかわらず、この映画内で二度目に迎える朝は、言いようもなくすがすがしい。
グーグルで「slacker 意味」と検索すると何番目かに、「日本でいま使われてるニートという言葉はむしろ英語でいうところのスラッカーじゃないのか」みたいなサイトがひっかかる。でも、たぶん日本語の「ニート」に決定的に欠けているのはこの映画のスラッカーたちの間にあるあまりにもぼんやりとした相互のつながりなのだ。そもそもそんなものがスラッカー一般の定義ではないと言うことはできるだろうし、この作品のスラッカーたちはやはり「ジェネレーションX」的な時代の産物に過ぎないとも言えるだろう。だが『ウェイキング・ライフ』のリンクレイターなら、「時代という概念は幻想に過ぎないとディックは言ってる」と言うだろうし、あるのかないのかわからないようなつながりを描き出すことこそ映画特有の力ではないのかと言ってみたくもなる。