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September 27, 2016

『バンコクナイツ』富田克也
渡辺進也

[ cinema ]

日本人の客とタイの女性の間で交わされる日本語での会話に、まるでこれがバンコクではなく東京かどこかで行われているかのような錯覚に襲われる。高層マンションとキラキラネオン輝くバンコクの夜は、街中に流れる川を隅田川に見立てた東京の河岸地域のようだ。日本人を相手にした店が並ぶタニヤ通りは、日本人が客引きをし、店の中では現地の女性が日本語で話す。ただ女性たちだけがタイの女性であり、そこにやってくる客も、はたまたその女性たちから金銭を得る男たちもまた日本人の男たちであるという図式。それは、まるで日本で行なわれていることの再生産であるような、そんな第一印象を抱かせる。
莫大な時間と労力をかけたフィールドワークの成果の下に作られた『バンコクナイツ』はそうした表層から潜っていくことで、第一印象を裏切ってくれる。現在、YCAMで行なわれているインスレーションのタイトルは「潜行一千里」であるが、『バンコクナイツ』はまさにそうした社会に、タイからラオス、ベトナムへ移動する道程に、はたまた光の当たらない闇の奥に潜り込む作品だと言える。
タニヤにある店でナンバーワンのラックはオザワという男と再会する。(空族の監督ふたりそれぞれの作品にあった流れがこの『バンコクナイツ』で緩やかに合流しているとも言えるかもしれない)。ふたりの間に過去に何があったかは明らかにされない。しかし、ふたりはお互いのことをよく知っており、それぞれなぜバンコクにやってきたかの事情を理解しあっている。ふたりがラックの故郷である北部の町ノンカーイに向かい、さらにオザワが指令を受けて日本人向けのビジネスのためにラオスのヴァンヴィエンやシェンクアン、ベトナムのディエンビエンフーへと向かう中で露わになるのは、米軍のベースの跡、かつて滑走路であった広い空間、いくつもの大地に穴が空く爆撃の跡である。あるいは、田舎の貧困や元兵士の白人たち。あるいはイサーンの森には亡霊が居つき、イサーンの音楽であるモーラム(光悦感というか幻惑感というかを齎すこの音楽はヤバい)。闇の奥は次々と姿を現わし、それは何の衒いもなくそのままに現れる。だがそれは映画の中で全てに十分と触れるわけでもなく、到底、底が見えるわけがない。『バンコクナイツ』で描かれることとは常に映画そのものよりもずっと大きい(また、タイの田舎の若者たちと踊る様はジャ・ジャンクーの初期の作品を思い起こさせるし、イサーンの森の不穏さはアピチャッポン・ウィーラセタクンの映画と地続きのようでもある。そうした意味においてもこの映画の懐はとてつもなく大きい)。
 『バンコクナイツ』はそこにあるものをあるものとして映し出す。なぜならば、それはそこにあるからである。これまでの作品でもインタヴューなどで制作の秘密を読むとき、それは実際にそういうことがあったのだと答えていたことを思い出す。しかし、ここでは詳細は書かないが、最後の方にあるラックとオザワがふたりの夜を迎える一連のシーンは、それとは違うものが映し出されているような気がした。それまでのようにあるものをあるままに映し出す方法でその場面を見せるということではない方法が用いられることもあるが、そこではあるものではなくてないものこそを現そうとしていると言ったらいいだろうか。男はないことを知っているのにも関わらず必死にあるものにしようとしていて、女はないものはないのだと最初から知っているとでも言ったらいいだろうか。映画を見てしばらくたった今もそのシーンが強く印象に残る。


爆音映画祭2016 特集タイ|イサーン
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会場:Shibuya WWW、WWWX
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