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November 8, 2016

『ダゲレオタイプの女』黒沢清
結城秀勇

[ cinema ]

露光時間の長いダゲレオタイプという撮影技法では、映像が定着するまで被写体は長時間同じ姿勢をとり続けなければならない。そのこと自体は頭ではよく理解できるのだが、これだけ静止画だろうが動画だろうが思いつきのままインスタントに得られる時代に生きていると、ちょっとした錯覚というか思い違いに陥る。つまり、もし撮影の途中で被写体が動いてしまったとしたら、例えば暗い場所で花火やペンライトを振ったりするのを写真に撮ったときのように、ものの動きの軌道が残像として映像に定着してしまうのではないかという思い違いである。この映画の中で印象的な小道具として登場するあの鉄製の補助器具も、被写体の静止によって得られる求める映像に対して、被写体がつい動いてしまうことによって生じる余分な映像を抑制するための拘束器具のような気がしてしまう。だが実際には、被写体が動き出してしまえばそこに残るのは、引き伸ばされた動きの軌跡のような余分な映像などではなく、ただ彼/彼女の映像の消失だ。静止した背景だけがそこに残り、通り過ぎた彼/彼女の姿は忽然と消えてしまうだけだ。
物語の進展とともに、写真家ステファン(オリヴィエ・グルメ)の撮るダゲレオタイプの銀板は大きさを増し、それに比例して露光時間は70分、90分、120分と増えていく。しかしこの映画を見終わって記憶に焼きつけられるのは、長編映画一本分の時間をかけて得られたたった一枚のその映像そのものというよりも、それを得るために消えていった映像たち、なんということのないかすかな運動の方だ。マリー(コンスタンス・ルソー)が屋敷の自室を無言でただ横切るシーンは、なぜカットを割ってその往復を映していたのだろうか。電車と徒歩、駆け上がる階段のカットの連続で表現されるジャン(タハール・ラヒム)の通勤時間はどのくらいなのだろうか。いやそもそもマリーの写真は、それを得るための彼女の疲労困憊ほどに70分版と120分版との間でクオリティの差があるものなのだろうか。
マリーは植物園の就職面接で、「植物たちの動きは目に見えないが、環境をコントロールしている」というようなことを言っていたように思う。見えない動き、それがこの映画の本質に触れるものであることは間違いない。それはなにも超常的ななにかなのではない。ただ私たちの知覚とは異なるスパンを持ち、私たちの露光時間の中では消えてしまうものなだけだ。そう考えると、屋敷の扉がひとりでに開き、電灯がひとりでに揺れ、真昼間に幽霊が現れるのも、ただただ日常的な普通の「見えない動き」であるのに過ぎないのかもしれない。
一見ゆったりと流れる時間をじっくりと捉えたかのように見えるこの作品だが、絶えず人が画面を横切り、背後では都市計画がものすごい勢いで進行し、気づけばいつの間にか3ヶ月もの時間が流れている。ひとつの街がまったく姿を変え、その利権を巡って人が死んだり死ななかったりする、そんな途方もなく巨大に思える運動ですら、人類規模、地球規模の露光時間の前には、ただ不動の背景を残して消え去るだけのものかもしれない。繰り返しになるが、『ダゲレオタイプの女』がその上映時間をかけて焼きつける映像とは、その風化の中をも永遠に生きぬく強固な一枚の映像ではないだろう。そうではなく、 とりたてて意識されることもなく通り過ぎていく映像たち、生も死も存在も非存在もひっくるめたひとつの映像としては定着しなかった無数の映像たちである。だから、ジャンの追い求めたひとりの女の肖像が、この映画の最後であまりにも儚く消えてしまうように思えても、それが彼の幻覚やただの思い込みに過ぎなかったなどとは、誰にも言うことはできない。


映画『ダゲレオタイプの女』公式サイト