『ミューズ・アカデミー』ホセ・ルイス・ゲリン三浦翔
[ cinema ]
『ミューズ・アカデミー』という題名から、どんなミューズ論が聞けるのかと真面目に期待をしていれば面喰ってしまう。これはムチャクチャな男の映画である。簡単に説明すれば、大学で文学の授業を開いているピント教授は、現代におけるミューズの探究と言いながら、高尚な理論を並べ立てて女生徒を誘惑(?)していく。舞台は大学でもあるし、とにかく出てくる人がみんな自分の理論を大きな声で相手に向かって喋る。言っていることを批判したり批判されたりしながらお互いが感化されて、曖昧に人間関係が混ざり合っていく。なるほど『シルヴィアのいる街で』に負けず劣らず、ダメな変態男の映画である。最近の日本では、過剰な不倫報道への違和感が問題にされたり、ポリティカル・コレクトネスが息苦しいなどと騒がれたりもしているが、この映画はそんな空気すら一笑してしまうほどに破壊的かもしれない。
不倫が正しいかどうかとか、ミューズとは何か、といった大きな問題にこの映画は答えを与えようとしていない。また、ダメ男の人生に自己投影していくような映画でもない。ピント教授はダメ男でただ醜くも見える。実のところ、ピント教授が何を考えているのかよくわからない。彼は自分の非を問い詰められて、それをミューズの探究と言っているが実際には怪しく聞こえる。ただ、映画を見ている側としては、ピント教授の理論が、妙に納得できるように思えたり、逆に言っていることがただの言い訳にしか聞こえなかったりする。この曖昧さにこそ魅力がある。
この曖昧さは、ナラティブや言葉そのものから来るものというよりも、言葉と映像の間に潜んでいるものだ。この映画の登場人物はとにかくよく喋る。それゆえ、語られている内容に比重が置かれているように思われるが、注目すべきは映像の方である。カフェや車のウィンドウ越しに撮影された映像には、喋っているひとの顔に加えて外の風景が窓に反射して写し込まれる。そのとき、話者の視線の先には相手がいるが、同時に風景もある。それゆえ、切り返しショットで繋がっているはずのふたりが、別々の世界を見ながら自分の言葉を喋っているようにも感じるのだ。このように話者がなにを見ているのかをぼかしていくショットによって、言葉がどこに向かっているのかもぼかされる。ピント教授は、ミューズを起点にして世界が構築される、といったことを語っている。しかしこの映画自身は、そうした一点透視図法的な秩序とはむしろ反対の、それぞれのパースペクティブが乱れあう、いわばブレブレの曖昧な世界である。
このようにして曖昧なイメージが、語られていることの凡庸な意味を解体していく。そこでは、単に不倫は悪いとか、逆に美とはなにか、といった価値までもが曖昧になっていく。と同時に、ピント教授が語る理論に不思議と立ち戻ってしまう謎がある。それは、ときに笑わずにはいられないほど滑稽な瞬間だが、同時にある種の神秘さを抱えたイメージでもある。そもそもだが、簡易的に撮影されたこの映画の画質は少し粗い。映像は終始、靄がかかったように曖昧なのだ。しかし、そこになにかがある。曖昧なイメージを曖昧なまま受け取ることが、この『ミューズ・アカデミー』に参加する条件なのである。
2017年1月7日(土)-1月29日(日)東京都写真美術館ホールにて ホセ・ルイス・ゲリン監督特集「ミューズとゲリン」同時開催